
俳句は日本古来から伝わる、伝統的な表現方法の1つとして、現代になっても多くの人たちに親しまれています。
これまでに数多くの俳句が俳人により詠まれており、たくさんの作品があります。
その中でも「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、馴染み深く、一度は耳にしたことがあるでしょう。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」 芭蕉が句をよんだ場所だそうです。大垣は奥の細道のむすびの地ですが、こんな遠くから歩いて来たわけか。元気だな。 pic.twitter.com/KVbObdrU
— 片山 圭介 (@ksuke99) September 28, 2012
作者はどのような背景で句を詠んだのか、またこの俳句を口ずさんだ時の心情はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者について徹底解説していきますのでぜひ参考にしてみてください。
目次
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の季語や意味・詠まれた背景
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
(読み方:しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
という俳句を、みなさんはご存知でしょうか?
こちらは、日本を代表する俳人「松尾芭蕉」が詠んだ俳句です。
それでは、早速こちらの俳句について詳しく解説していきます。
季語
こちらの俳句に含まれている季語は「蝉」で、夏の季語(夏を表現する言葉)です。
また、曾良の日記では芭蕉が旧暦の5月27日にこの句を詠んだことが記載されています。
参考までに、グレゴリオ暦(現在の暦)で見ると5月27日は7月13日に当たり、夏であることが分かります。
松尾芭蕉が詠んだセミには、「アブラゼミ(斎藤茂吉説)」「ニイニイゼミ(小宮豊隆説)」の2説があり、一時期セミの種類を巡って論争になりました。
結局は、実地調査によりニイニイゼミであることが分かっています。
意味
この俳句の意味は、以下の通りです。
「なんて静かなのだろう。石にしみ入るように蝉が鳴いている。」
蝉の鳴き声がうるさいのに、どうして芭蕉は「閑かさや」と感じたのかという部分が不思議です。
しかし、何度か口ずさんでみると、騒がしい蝉の声を忘れてしまうほどの閑かな山奥で詠まれていることを感じます。
さらに、芭蕉自身がこの世とは思えない、とても静寂な空間に引き込まれて行く様子が感じ取れます。
何も聞こえない無の世界、つまり芭蕉が己の心の中を見つめているのであろうとこの句から推察します。
それほどの無の境地の中で、芭蕉は何を考えていたのでしょう。
この句が詠まれた背景
芭蕉は1689年から門人の曽良と共に、江戸を出発し旅に出ます。
(芭蕉(左)と曾良(右) 出典:Wikipedia)
その旅は、150日間をかけて東北・北陸・関東地方を周遊するとても長いもの。芭蕉は旅の途中で見た情景や心情を数多くの俳句として残しています。
こちらの句も芭蕉が、山形県にある立正寺に立ち寄った時に詠んだものです。
この長い旅の間に詠んだ句を集めた作品が、有名な「奥の細道」です。
その中でも「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、非常に優れた作品として親しまれています。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 閑かさやの部分の初句切れ
- 岩にしみ入る蝉の声の部分の暗喩
- 蝉の声の部分の体言止め
の3つです。
閑かさやの部分の初句切れ
まず、閑かさやの部分にみられる初句切れ(切れ字)は、余韻を表現する技法です。
初句切れにすることで俳句に「余韻ができリズムが生まれます。
つまり「閑だなあ・・・・・・・」ということ。その後「岩にしみ入る蝉の声」と続き、余韻の中で味わう蝉の声をしっかり感じさせてくれます。
岩にしみ入る蝉の声の部分の暗喩
暗喩法とは「まるで〜のような」と比喩する文章表現方法です。
この技法を使うことにより、詠んでいる状況や気持ちをイメージしやすくなります。
蝉の声の部分の体言止め
下句に体言止めを入れることで、俳句のインパクトが強くなります。
「石にしみ入る」ほどの声で蝉が鳴いていると表現されているため、「閑さや」という部分に矛盾を感じます。
この部分が、この俳句を解読する際の重要ポイントです。
芭蕉は「暗喩」の技法を用いて、精神的な「閑さや」を表現しています。
芭蕉がこの句を詠んだ山形県立正寺は、森深い静かな場所にある寺院。蝉が鳴くと山に反響し、こだまとなって戻って来ます。
つまり、蝉の声がこだまとなり戻ってくるほどに、立正寺はとても閑かな場所にあるわけです。
そのような俗世の騒がしさから離れた、異次元の閑かな世界に心が吸い込まれて行く様子をこの句では表現しています。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単に紹介!
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
この句を書いたのは、有名な俳人である松尾芭蕉です。
松尾芭蕉は、1644年に三重県伊賀市(当時の伊賀国)で生まれました。本名は松尾宗房。松尾芭蕉という名は、俳号になります。
芭蕉の実家は、平氏の末流に当たる血筋でしたが、身分は農民に過ぎませんでした。13歳の時に父が亡くなり、兄が家督を相続。しかし、決して生活は楽ではなかったと言われています。
18歳の時に藤原良忠という人と主従関係を結び、小間使いとして働き始めます。この藤原良忠は俳句を詠むのがうまく、芭蕉が俳諧の世界に足を踏み入れるきっかけとなりました。
同じ年に主人藤原良忠と一緒に北村季吟の元に弟子入りをして、本格的に俳句の道を進んで行きます。しかし、24歳の時に藤原良忠が亡くなるという不遇の出来事が起こりました。これにより、芭蕉は俳人として一生を生きて行こうと決めたのです。
その後、京都ではちょっとした有名人となり、江戸に上京することを決意しました。ですが土地柄が変われば、芭蕉を知る人は全くいなく、いろいろと苦労をしたようです。
ようやく江戸で認知されるようになった頃に芭蕉は俗世に嫌気がさし、旅に出て俳句を詠むことを決意しました。これが、奥の細道の誕生となります。
松尾芭蕉は、このように俳句の世界で生き、食中毒または赤痢により50歳でこの世を去りました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)