【冬菊のまとふはおのがひかりのみ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で四季の美しさに感動する心、日々の暮らしの中で心動かされたことを詠みこむ「俳句」。

 

特に名句と呼ばれるものは高い芸術性を持つ文学作品として評価されています。

 

今回はそんな数ある名句の中でも「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」という水原秋桜子の句をご紹介します。

 

 

本記事では、「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

冬菊の まとふはおのが ひかりのみ

(読み方:ふゆぎくの まとふはおのが ひかりのみ)

 

こちらの句の作者は「水原秋桜子」です。

 

「秋桜子」という雅号は女性的なイメージですが、男性の俳人です。大正から昭和にかけて活躍しました。

 

水原秋桜子の句は国語の教科書でもよく取り上げられる有名な句をたくさん詠んでいます。

 

季語

こちらの句の季語は「冬菊」、冬の季語になります。

 

「菊」は秋に咲く花で秋の季語ですが、「冬菊」というのは遅咲きの冬になっても咲いている菊のこと。そのため、冬の季語に分類されます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「冬菊がその身にまとうのは、冬の日を浴びて自らがはなつ光でできた衣だけなのだろうか。」

 

という意味になります。

 

「まとふ」とは身につける、衣服を着るという意味で、「菊の花が光の衣を身につけているようだ」ということになります。

 

また、「おのがひかり」は自分自身の光、自分自身が放つ光ということ。

 

ひっそり咲く冬菊の花の他に見るものとてなく、寂しげながらも凛とした様子をほのかに光っているかのように見て取ったということです。

 

この句が生まれた背景

この句は、水原秋桜子が昭和23年(1948年)に詠んだ句です。

 

水原秋桜子は、昭和20年春、戦禍を避けて八王子に移住。八王子で数年を過ごすこととなりましたが、その時の作品になります。

 

当時、秋桜子は八王子の住まいの近隣の人から分けてもらった菊を庭に植えて楽しんでいました。

 

その年の立冬が過ぎた頃、たくさんの花は枯れている一方で、黄色や白の小菊だけが枯れずに残っていました。

 

白い菊は白い光、黄色い菊は黄色い光をはなつのみ、寂しくも凛と澄み透っている様子に秋桜子は心を動かされ、この句を詠んだとされています。

 

この句は、句集「霜林」に収録されていますが、この句と一緒に「冬菊は暮光に金の華をのべ」(冬菊は暮かかる夕日のなかで金色の花を咲かせていることよ。)という句が収録されています。

 

どちらも花をいとおしむ気持ちがひしひしと伝わってきます。

 

「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」の表現技法

句切れなし

一つの句の中でリズム・意味の上で切れるところを句切れと言います。

 

言い切りの形になっているところ、つまり普通の文であれば句点「。」がつくようなところや、切れ字のあるところで句切られます。

 

(※切れ字とは、感動や詠嘆を表す言葉で、「かな」「や」「けり」などが代表的)

 

もちろん、句の中には句切れがないものもあり、この句も句切れはありません。

 

このような場合を「句切れなし」と呼びます。

 

一筆書きで描いた一枚の絵のような印象の句です。

 

「おのがひかり」の暗喩

暗喩とは、比喩、たとえの表現の一種です。

 

「~のような」「~のごとし」などのような、比喩であることがはっきりわかるような書き方ではなく、たとえるものを直接結びつけ、言い切るように表現した比喩です。

 

「彼女は彼にとって太陽のような存在だ。」と「ような」を使ってたとえる表現は直喩、明喩といい、「彼女は彼の太陽だ。」と「ような」を使わずに直接言い切るたとえ方を暗喩といいます。明喩よりも暗喩の方が強い印象を与えます。

 

この句の「おのがひかり」は「冬菊」自身が発している光、というくらいの意味です。

 

本当に菊の花が発行するのではなく、まるで光っているかのように見える、ということなのですが、「~のようだ」にあたる比喩とわかる言葉を用いずに暗喩で表現しています。

 

冬菊の端然とした佇まいが伝わってきます。

 

擬人法

擬人法とは、人ではないものを人にたとえて表現する表現技法のことです。

 

この句では、「冬菊」を人にたとえています。

 

「冬菊」が「ひかり」を「まとふ」、つまり、「冬菊が光を身に着けている」という表現になっています。

 

菊の花が本当に服を着ているわけではなく、菊の花が光って見える様子を花が光でできた衣服を着ているかのような言い回しにしているのです。

 

擬人法を使うことで、冬菊の凛とした強さを印象的に表現しています。

 

ひらがなの多用

「冬菊やまとふはおのがひかりのみ」、「冬菊」以外はすべてひらがなで表記されています。

 

作者の見た咲き残った菊の花は茎も細く、かぼそくも見えたでしょう。差すのは冬の弱い日光、冬枯れの庭が広がっています。

 

作者は、咲く冬菊が放つ光を見出していますが、これはギラギラした強いものではありません。

 

ほんのりとやさしい光を帯びた花、かぼそくもしなやかな草姿・花の温もりを、ひらがなを多用した表記で表現しているのです。

 

「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」の鑑賞文

 

【冬菊のまとふはおのがひかりのみ】は、冬菊が自ら光を放つようにして凛として咲いている様子を詠みこんだ句です。

 

冬枯れの庭で花と言えば冬を迎えても咲き残った冬菊。けっして派手に咲き誇っているのではありません。

 

菊だけが残っている様に、むしろ寂しさをもよおす光景です。

 

それでも、冬菊がすっと茎をのばし、凛とした花を咲かせている様は、弱々しい日の光に照らされているというよりもむしろ自ら光を発しているかのように見えたのでしょう。

 

花の命は儚いともいいますが、ほかの花が絶えても冬の寒さに負けることなく咲き続ける冬菊は、しなやかでしたたかな生命力を感じさせます。

 

この時、秋桜子は昭和20年の東京大空襲によって、神田にあった病院(秋桜子は病院を経営する医師でもありました)を焼かれ、疎開する形で八王子に仮寓する身でした。

 

冬枯れの寂しさの中で派手さはなくとも凛と咲く菊の姿に、苦境を生き抜こうとしている自分の姿を重ねていたのかもしれません。

 

作者「水原秋桜子」の生涯を簡単にご紹介!

(1948年の水原秋桜子 出典:Wikipedia

 

水原秋桜子、秋桜子は秋櫻子とも記されることのある雅号です。

 

本名は水原豊、明治25年(1892年)に生まれ、大正期から昭和にかけて活躍した俳人・歌人です。

 

医学を志す学生時代に俳句を知り、松根東洋城、高浜虚子らに師事することとなりました。

 

その一方で医師として家業である病院を継ぎ、医科大学で教鞭をとるなど、医学博士としても業績を残しました。

 

高浜虚子率いるホトトギス派の中でも気鋭の俳人の一人と目され、ホトトギス派の隆盛に一役買います。

 

しかし、虚子らの作句の姿勢と異なってきて虚子にも批判され、自らも反論しホトトギスを去ることとなります。

 

ホトトギス派とは違う俳句を模索する俳人たちと新興俳句運動を展開し、新たな潮流を生むこととなりました。

 

昭和56年(1981年)東京都杉並区で88歳の生涯を閉じました。

 

水原秋桜子のそのほかの俳句