【やせ蛙負けるな一茶これにあり】俳句の季語や意味・解釈・表現技法・作者など徹底解説!!

 

皆さん、俳句は詠んだことありますか?

 

日本に古くから伝わる文章の書き方の一つで、世界最短の文とも言われています。

 

そんな俳句は、素人から俳句を生業とする「俳人」と呼ばれる人までさまざまな人から詠まれてきたため、数え切れないほど沢山の句が存在します。

 

そんな沢山の俳句の中には「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」という有名俳句があります。

 

 

今回は、この「やせ蛙負けるな一茶これにあり」の季語や意味・作者は何を見てこの句を詠んだのか?など、徹底解説していきたいと思います。

 

「やせ蛙負けるな一茶これにあり」の作者や季語・意味

 

やせ蛙 負けるな一茶 これにあり

(読み方:やせがへる まけるないっさ これにあり)

 

という俳句。皆さん耳にした事はありますか?

 

こちらの句は、有名な俳人である小林一茶が詠んだ句です。

 

それでは早速この俳句について詳しく解説していきます。

 

季語

まず、この俳句に含まれている季語がどこかわかりますか?

 

この俳句に含まれている季語は「やせ蛙」の部分です。

 

「蛙」は通常春の季語ですが、小林一茶が詠んだこの「やせ蛙」はヒキガエルであったと考えられています。

 

現代語訳にしてもなかなかヒキガエルとまで訳されないので勘違いされがちですが、ヒキガエルは夏の季語ですので、この俳句は夏に詠まれたということがわかります。

 

意味

この句の意味は「小さくて弱そうなやせ蛙よ。負けないでくれ。私がここで応援しているぞ。」という蛙に語りかけるような形になっています。

 

この句が詠まれる時、2匹のオス蛙がメス蛙を狙って争いをしていたと言われています。

 

それをたまたま目撃した作者が、負けそうになっているやせ蛙に同情して応援しているのです。

 

この句が詠まれた背景

小林一茶がこの句を詠んだ背景には、現在2つの説があると言われています。

 

①自らの不遇を詠んだといわれる説

1つ目は「自らの不遇を詠んだといわれる説」です。

 

小林一茶は、20代の頃からすでに白髪頭でその風貌から女性からモテず52歳まで結婚が出来ていませんでした。

 

メスを巡って争う時、痩せている弱々しい蛙は不利で、太ってどっしりとした体格の蛙の方がメスを手に入れやすいです。

 

そんな痩せて弱い蛙にモテない自分を重ねて詠んだ句であると考えられています。

②虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説

2つ目は「虚弱児な子供に対して詠んだといわれる説」です。

 

小林一茶は、52歳で初めて結婚。その時に生まれた男の子は虚弱児で、生まれてからたった1ヶ月ほどで亡くなってしまいます。

 

そのあと長女、次男、三男と生まれましたが全員幼い頃に亡くなってしまいます。

 

そんな自分の子供が病魔と戦っている姿を痩せている弱々しい蛙と重ねて、懸命に応援している様子を詠んだ句だとも考えられているのです。

 

「やせ蛙負けるな一茶これにあり」の表現技法と感想

呼びかけ

この句の特徴は、蛙に語りかける作者の言葉をそのまま書いています。

 

これは「呼びかけ」という何かに呼びかけるような口調で句を詠む方法です。小林一茶の句にはこの「呼びかけ」が多く使われています。

 

例えば、下記の小林一茶の有名な句もその一つです。

 

 

こちらの句も直接雀に問いかけるように詠まれた句です。「呼びかけ」を使うことで、句に優しい印象を持たせることができます。

 

一茶はこれを意図的に用いて蛙の他に雀やアリなどの弱い動物を詠み、自分に起こった出来事や心情と照らし合わせていたのです。

 

初句切れ

句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。

 

句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。

 

この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「やせ蛙」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。

 

「やせ蛙負けるな一茶これにあり」の作者・小林一茶について

(小林一茶 出典:Wikipedia

 

この句を詠んだのは有名な俳人である小林一茶です。

 

小林一茶は、1763年に信濃北部の農家に生まれました。

 

本名は小林弥太郎。家は、中くらいの自作農でありましたが、この土地は痩せた火山灰地であったため、生活はあまり楽ではありませんでした。

 

一茶の母は一茶が3歳の時に亡くなっていて、一茶の父は再婚。その後、義理の母から弟が生まれましたが義理の母と弟とは仲が悪かったそうです。

 

そして、そのままうまく行かず15歳で故郷を出ることになります。その後25歳の時葛飾派俳人の門人となり、その後28歳で溝口素丸に入門します。

 

一茶は20代の頃すでに白髪が生えていたため、その風貌からモテなかったそうで、はじめて結婚したのは52歳の時でした。

 

2人の間には男の子の子供ができましたが、大変な虚弱児でその後1ヶ月足らずで男の子は亡くなってしまいます。

 

その後も3人の子供を生みましたが全て亡くなってしまい、ついには妻まで病に倒れ亡くしてしまいます。

 

妻が亡くした後、2度再婚しましたが、子供は最後の妻との間にできた娘だけが残りました。

 

しかし、一茶は58歳の時に脳卒中で倒れ半身不随になり、そして家が火事になったりと波乱な人生を送り、1827年に生活していた土蔵の中で息を引き取りました。

 

小林一茶が詠んだそのほかの俳句

(一茶家の土蔵 出典:Wikipedia