【五月雨を集めてはやし最上川】俳句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説!!

 

俳句とは、575317音からなる、日本独自の定型詩のことです。

 

俳句は現代でも、お年寄りからお子さんまで、非常に多くの人が詠み、親しみながら楽しんでいますね。

 

今回は松尾芭蕉の有名な俳句の一つ、【五月雨を 集めてはやし 最上川】という句を紹介していきます。

 

 

今回ご紹介する【五月雨を 集めてはやし 最上川】という句は、もしかしたら教科書などで一度は目にしたことがあるかも知れません。

 

今回はこの句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「五月雨を集めてはやし最上川」の季語や意味・詠まれた背景

 (最上峡 出典:Wikipedia

 

五月雨を 集めてはやし 最上川

(読み方:さみだれを あつめてはやし もがみがわ)

 

こちらの句の作者は「松尾芭蕉(まつおばしょう)です。

 

芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳諧師です。「俳聖」として日本だけでなく、世界的にもその名が知られています。

 

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美しい日本の風景に侘びやさびを詠みこむ作風は「蕉風」とも呼ばれ、独自の世界を切り開いていきました。

 

また芭蕉は人生を旅そのものととらえ、江戸から東北・北陸など日本各地をまわり、俳句を詠みながら旅をしました。紀行文学の最高傑作とも称される『おくのほそ道』など、5つの旅行記を残しています。

 

 

季語

こちらの句の季語は【五月雨(さみだれ)】です。

 

五月の雨、と書くので、春の季語ではないのかと思われがちですが、五月雨とは梅雨の季節に降る雨のことを指します。

 

そのため、この俳句の季節は【初夏】になります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「梅雨の雨(さみだれ)が最上川へと流れ込んで水かさが増し、危険なほどに流れがはやくなっていることだ。」

 

という意味になります。

 

最上川とは山形県内に流れる大河川で、日本三大急流と呼ばれるほど流れの早い川のことです。

 

この句が詠まれた背景

この「五月雨を 集めてはやし 最上川」という句は、松尾芭蕉が執筆した紀行文『おくのほそ道』の中におさめられている一句です。

 

なんとこの句は、雨による増水で流れが急になっている最上川の様子を詠んだものではなく、松尾芭蕉が実際に雨で増水した最上川を川下りした経験を詠んだものです。

 

また、この句は「五月雨を 集めて涼し 最上川」という句が元で、最上川の船町・大石田という地域で行われた句会で詠まれたものでした。

 

意味は「暑い7月に、梅雨を集めたような最上川から吹いてくる風が涼しいことだ」というもので、とても優雅で風流な句でした。

 

ところがその後、松尾芭蕉は川下りをしたことによって急流の激しさを感じ、「五月雨を 集めてはやし…」と句の内容を変更したのです。

 

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当時、一度発表した句を詠み直すということはよくあったようで、俳句を詠むときには即興で詠むよりも充分に推鼓されてからのことが多いと言われています。

 

「五月雨を集めてはやし最上川」の表現技法

体言止め「最上川」

体言止めとは、俳句や和歌などを詠む際、語尾を名詞・代名詞で止める表現技法のことです。

 

この句は、「最上川」という名詞を最後に使っていますので、体言止めを使った俳句になります。

 

体言止めを使用することで、句にリズムが生まれ、俳句がより印象的なものになります。

 

また、歯切れがよくなり、余韻が生まれることによってイメージが膨らみやすくなります。

 

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体言止めが使用されている有名な俳句は他にもたくさんあり、正岡子規の【柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺】などもその一つです。

 

擬人法が使われている

この句は、「最上川」に擬人法を使ったものだと言われています。

 

なぜなら、川は実際には「雨を集めている」わけではないからです。

 

写実的な表現を良しとした大正時代の俳人・正岡子規は、擬人法という技法を『月並俳句』の特徴のひとつだとし、良い評価をしていません。

 

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しかし、擬人法を使っているこの句は今でも読み継がれている名句の一つですから、すべて悪い句であるということは一概には言えません。

 

「五月雨を集めてはやし最上川」の鑑賞文

 

この句を読むと、「急流で川下りなんて危険なのでは…」と思ってしまいますが、ただ風景を見たまま詠むのではなく、自然に直接触れ合った感覚を俳句にするという松尾芭蕉の俳人としての気概に感服してしまいます。

 

梅雨の雨さえもその身に取り込んで、ごうごうと流れていく最上川の力強い姿が目に浮かんできます。

 

『月並み俳句』の特徴である擬人法を使った松尾芭蕉ですが、この句は見たまま、感じたままの光景を表現しています。

 

自然のありのままの様子を表したこの方法を、今では「写実的表現」と言います。

 

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芭蕉は自らの弟子たちにもこの教えを遺し、それらは受け継がれ、やがて正岡子規らに最も大切にされた「写実的表現」の先駆けとなりました。

 

「五月雨を集めてはやし最上川」の補足情報

最上川の難所

『おくのほそ道』に収録する際に「涼し」から「はやし」に変えた理由として、川下りを体験したからという理由があります。この時のことを芭蕉は、「最上川」の項目で、以下のように語っています。

 

「最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。碁点・隼などいふおそろしき難所あり。板敷山の北を流れて、はては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲つみたるをやいな舟といふならし。」

(訳:最上川は陸奥に水源を発して、その上流が山形である。中流には碁点・隼などという恐ろしい難所もある。板敷山の北を流れて、ついには酒田で海に入る。左右を山が覆いかぶさるような茂みの中から船に乗って下る。このような船に稲を積んだものを稲舟と言うのであろう。)

 

現在では、芭蕉が挙げた「碁点」「隼」の他に「三ヶ瀬」を入れて、最上川の三大難所と呼ばれています。

 

「碁点」は碁石のように岩が点在している場所で、船が転覆しやすい場所でした。「三ヶ瀬」は文字のとおり、3箇所の瀬のような岩が連なっていて、通行するのに座礁しやすい場所です。

 

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最後の「隼」は岩礁が川床を多い急流になっている場所で、急流を体験した場所として相応しいのはこの区間でしょう。

 

最上川と歌枕

上記の『おくのほそ道』で、芭蕉は「稲舟」というものに触れています。

 

脈絡もなく出てきたように思えますが、最上川といえば稲舟という歌枕が平安時代に成立していたのです。

 

これは、「東歌」という伝統的な和歌として収録された下記の和歌から始まっています。

 

「最上川 のぼればくだる 稲舟の いなにはあらず この月ばかり」

(訳:最上川を上って下る稲舟のように、否ではありません。今月だけですよ。)

 

この和歌では「いな」という音を詠むために三句目まで使用していますが、当時から最上川といえば稲を運ぶ舟が連想されていたことがわかります。

 

実は最上川に急流というイメージがついたのは、芭蕉の「五月雨を」の句以降とされています。

 

根拠として、最上川の歌枕は長らく稲舟とされていて、その流れを詠んだものはほとんどなかったからです。

 

五月雨と最上川を組み合わせた和歌は兼好法師が詠んでいるので、芭蕉はその和歌も念頭に置いていたのかもしれません。

 

「最上川 はやくぞ増さる 雨雲の のぼればくだる 五月雨のころ」

(訳:最上川がはやくも増水してきた。 雨雲も上れば下る五月雨の頃だ。)

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この和歌でも「のぼればくだる」というフレーズがあり、古今和歌集の東歌が元になっていたことがわかります。

 

この句の作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単に紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳諧師(はいかいし)です。

 

三重県の伊賀という地域に生まれ、武士の一族の出身だったとも農民の生まれだとも言われていますが、幼年期のことはよくわかっていません。

 

19歳で京都にいた北村季吟に教えを受け、俳諧の道へと入ります。

 

本名は松尾宗房と言い、「芭蕉」は俳句を作る人が名乗る「俳号」と呼ばれるものでした。

 

俳諧とは室町時代から続いていた「連歌」から発展したものでしたが、松尾芭蕉はその俳諧に高い芸術性を加え、「蕉風」と呼ばれる分野を確立しました。

 

45歳になると弟子の河合會良(かわいそら)とともに、「おくのほそ道」の旅を始め、150日間かけて約2400㎞もの距離を歩いたと言われています。

 

(芭蕉”左”と曾良”右” 出典:Wikipedia)

 

この旅により松尾芭蕉の多くの代表作が生まれました。

 

かなり体力を要する旅を終えたことや、出身が伊賀で幼少期が謎に包まれていたことなどから、実は忍者だったのではないかという説もあるそうです。

 

旅先にて50歳で亡くなると、松尾芭蕉の葬儀には300人もの弟子が参列したそうです。

 

多くの人に慕われ、高い芸術性で俳諧の文化を発展させていった松尾芭蕉。その功績は高く評価され、後の時代の人々から「俳聖」とまで呼ばれるようになりました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia