【古池や蛙飛び込む水の音】俳句の季語や意味・魅力(すごさ)・表現技法・作者など徹底解説!!

 

日本には多くの有名な俳人がおり、これまでにたくさんの俳句が残されてきました。

 

そして、現代になっても身近なテーマを中心に数多くの俳句が詠まれています。

 

今回はそんな数ある名句の中から「古池や蛙飛び込む水の音」という松尾芭蕉の句を紹介していきます。

 

 

作者はどのような背景でこの句を詠んだのか、またこの俳句を口ずさんだ時の心情はどうだったのでしょうか?

 

本記事では、【古池や蛙飛び込む水の音】俳句の季語や意味・魅力(すごさ)・表現技法・作者など詳しく解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「古池や蛙飛び込む水の音」の季語や意味・詠まれた背景

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

(読み方:ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)

 

こちらの句は、著名な俳人「松尾芭蕉」が詠んだ作品です。

 

芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳諧師です。「俳聖」として日本だけでなく、世界的にもその名が知られています。

 

俳句仙人

美しい日本の風景に侘びやさびを詠みこむ作風は「蕉風」とも呼ばれ、独自の世界を切り開いていきました。

 

また芭蕉は人生を旅そのものととらえ、江戸から東北・北陸など日本各地をまわり、俳句を詠みながら旅をしました。紀行文学の最高傑作とも称される『おくのほそ道』など、5つの旅行記を残しています。

 

 

俳句仙人

それでは、早速こちらの俳句について詳しくお話しさせていただきます。

 

季語

こちらの句の季語は「蛙」、季節は「春」です。

 

「蛙」と聞くと梅雨時の初夏のイメージがありますが、春の季語になります。

 

その理由は、蛙は寒い冬場は冬眠し、春になると賑やかな鳴き声を出して活動し始めるからです。

 

また、田んぼに水を張る、五月初旬に鳴き声が活発になることからも春を指す、季語として使われています。

 

俳句仙人

参考までに、こちらに登場する「蛙」は「ツチガエル」という説が有力です。

 

意味

この俳句の意味をストレートに解釈すると下記のようになります。

 

「古池に蛙が飛び込む音が聞こえてくるよ。」

 

しかし、本当の意味は下記となります。

 

「蛙が古池に飛び込む音が聞こえて来るほど、なんて静かなのだろう。」

 

この句が詠まれた背景

こちらの俳句は、松尾芭蕉が隅田川の川岸にある芭蕉庵で、仲間の俳人達と俳句を読んだ際の作品です。

 

仲間たちと句会の際に詠んだ俳句である説と、この句が発端となり句会が開催されたとの話もあり、真偽は定かではありません。

 

ですがいずれにしろ、俳人仲間の間でも非常に評価の高い句であることが伺えます。

 

俳句仙人

またこちらで出てくる「古い池」は芭蕉庵の近くにあり、門下生が川魚を放流し生簀としていた池を示すとの説があります。

 

「古池や蛙飛び込む水の音」の表現技法

 

この句で使われている表現技法は下記の2つです。

 

  • 古池やの部分の切れ字
  • 水の音の部分の体言止め

     

    古池やの部分の切れ字

    切れ字とは、文章に余韻を残し、親しみを感じさせるための技法です。

     

    こちらの句では【古池「や」】とすることにより、古池がある情景を読者がイメージしやすくなっています。

     

    また、切れ字には「かな」「けり」などがありますが、ここでは「や」を用いることで俳句を詠む際に一呼吸おくことになり、俳句にリズムが生まれます。

     

    水の音の部分の体言止め

    「水の音」の部分が体言止めに該当します。

     

    体言止めとは、名詞(こちらの句では音)を下の句に入れ文章を結ぶ表現方法のことで、体言止めを用いることで俳句全体に力強さ・インパクトが生まれます。

     

    今回の句においては、静かな環境での「水の音」が強調されています。

     

    「古池や蛙飛び込む水の音」の鑑賞文:この句の魅力(すごさ)

     

    こちらの句からは、自然豊かな中で芭蕉が俳句を口ずさんでいる様子が浮かんできます。

     

    句の中に「池」ではなく「古池」を使うことで、荒れ果てた庭園の様子までイメージすることができ、また、1匹の蛙がポチャッと水の中に入る姿がダイレクトに伝わってきます。

     

    その一方で、たった1匹の蛙が水の中に落ちる音が伝わって来るほど、静かな情景であることも想像できます。

     

    この句の魅力(すごさ)は、ズバリ「自ずと情景が伝わってくるという点」にあります。

     

    5・7・5の短い文章にも関わらず、こちらの俳句を読んだ人たちがストレートに情景が浮かび上がる作品です。

     

    自然が豊かな静かな空間であることを否応なしに想像することができると思います。

     

    俳句の意味を考える前に、自ずと情景が伝わってくるという点がこの作品の凄さであり、魅力なのです。

     

    また、こちらの句の「古池」や「蛙」については実際に存在せず、空想上でイメージをし、俳句を詠んだという話もあります。

     

    ただ一方で、「蛙」は実際に存在し水に飛び込んでいるが「古池」はなかったという説もあり、見解が分かれる部分があります。

     

    俳句仙人

    いずれにしろ、静かな情景を芭蕉が俳句に残したかったという事には変わりはありません。

     

    「古池や蛙飛び込む水の音」の補足情報

    句の初案

    この句は当初「蛙飛んだり水の音」と、初句以外が先に完成していたと言われています。

     

    初句をどうしようかと弟子の宝井其角に相談し、「山吹や」としたらどうかと提案されたところ、すぐに却下して「古池や」という今の形になりました。

     

    なぜ却下したのかという点について、各務支考が記した『葛の松原』で下記のように語っています。

     

    「山吹という五文字は、風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實(まこと)也。山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからぬ」

    (訳山吹やという五文字は和歌の伝統に則って風流であり華やかであるが、古池やという五文字は質素で真実味がある。山吹やというありがたい五文字を捨ててただ古池やと詠む心こそ深い意味があるのだ。)

     

    また「蛙飛んだり」という箇所は、飛び込む勢いは感じさせますが、談林派の滑稽さが垣間見える表現です。

     

    俳句仙人

    この部分を「蛙飛び込む」という日常の表現に変えることにより、日常的に感じるわび・さびの表現へと変わっています。

     

    山吹と蛙

    其角は何故最初に山吹と提案したのか、芭蕉も「風流にしてはなやか」「うれしき五文字」とまで言うほど蛙との組み合わせを評価していたのでしょうか。

     

    ここでは、芭蕉の尊敬する旅する歌人・能因法師のエピソードが関連してきます。

     

    能因法師には蛙にまつわるエピソードが存在します。これは『袋草子』という歌人たちのエピソードや心意気を収録した本に残っているものです。

     

    能因法師は歌道の達人だった帯刀節信と初めて会ったときに意気投合しました。その時に帯刀節信が「井出の蛙」というものを能因法師に贈り、とても喜ばれていました。

     

    「井出の蛙」は古今和歌集の詠み人知らずの歌に出てくるものです。

     

    「かはづなく 井手の山吹 ちりにけり 花のさかりに あはましものを」

    (訳:蛙が鳴いている井手の山吹はすでに散ってしまった。そうとわかっていたなら、もっと早く来て花の盛りを見たものを。)

     

    「井出」は地名で、蛙と山吹の花で有名な場所でした。能因法師はこのことを知っていたため、あの有名な井出の蛙かと喜んだのです。

     

    ここでこの句の初案を見てみましょう。其角は「山吹や」と付けたらどうかと答えています。能因法師と帯刀節信のエピソードや、古今和歌集のこの歌のことを知っていたのでしょう。

     

    俳句仙人

    そして芭蕉も知っていたからこそ、和歌の伝統である「鳴く蛙」や「蛙と山吹」を避け、「古池や」とすることで独自の俳諧を成立させたのです。

     

    作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

    (松尾芭蕉 出典:Wikipedia)

     

    この句を書いたのは、有名な俳人である松尾芭蕉です。

     

    松尾芭蕉は、1644年に三重県伊賀市(当時の伊賀国)で生まれました。本名は松尾宗房です。松尾芭蕉という名は、俳号になります。

     

    芭蕉の実家は農民にしか過ぎなかった上、13歳の時に実父を亡くしてしまい、生活が苦しかったようです。

     

    芭蕉は、18歳の時に藤原良忠の元で奉公をはじめ、小間使いとして働きます。この藤原良忠という人物は俳句を詠むのが上手く、芭蕉が俳諧の世界へ入るきっかとなったのです。

     

    その結果、2人は同年北村季吟に弟子入りをして、俳句の修行をはじまめました。しかし、藤原良忠が亡くなり、24歳だった芭蕉は俳人として一生涯を過ごすことを決意します。

     

    その後は努力の甲斐があり、京都で少し名の知れた俳人となり、江戸への上京を決断したようです。しかし、知人もおらずにいろいろと苦労をしたようです。

     

    やっと江戸で認知されましたが、芭蕉は俗世に嫌気がさし、旅をしながら俳句を詠むことを決意しました。これが奥の細道へとつながります。

     

    このように俳句の世界で生きた芭蕉は、50際の時に赤痢または食中毒にて亡くなりました。

     

    松尾芭蕉のそのほかの俳句

    (「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia