【草臥れて宿借るころや藤の花】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

江戸時代に活躍した俳句の名人「松尾芭蕉」。

 

彼は後世にもその名は高く伝えられ、伝説的存在となっています。

 

松尾芭蕉の句も著書も、文学としての高い芸術性を持ち、多くの人を魅了し続けています。

 

松尾芭蕉は、時代を超えて多くの文学者から慕われ、松尾芭蕉の句や著書から影響を受けた作品も後を絶ちません。

 

今回は、「笈の小文」という紀行文にある、「草臥れて宿借るころや藤の花」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「草臥れて宿借るころや藤の花」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。

 

「草臥れて宿借るころや藤の花」の季語や意味・詠まれた背景

 

草臥れて 宿借るころや 藤の花

(読み方:くたびれて やどかるころや ふじのはな)

 

こちらの句の作者は、江戸時代前期に活躍した俳人「松尾芭蕉」です。

 

季語

こちらの句の季語は「藤の花」、春の季語です。

 

藤はマメ科のつる性の植物で、木などに巻き付いて房状の花を咲かせます。

 

桜よりも遅い時期で、春の終わりを飾るように咲く花です。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「歩きつかれ、くたびれてきて、そろそろ宿をとるころ合いとなってきた。ふと気づくと藤の花が見事に咲いているよ。」

 

という意味になります。

 

「草臥れて(くたびれて)」は、「くたびれて」当時の口語の表現でした。

 

この句が詠まれた背景

この句は、「笈の小文」という紀行文にのっています。

 

「笈の小文」とは、松尾芭蕉が貞享4年(1687年)の10月に江戸を出て、尾張(愛知県)・伊賀(三重県)・伊勢(三重県)・大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)をまわり、須磨や明石(どちらも兵庫県)を旅したときの俳諧、記録をまとめた書のことです。

 

この句は、松尾芭蕉が大和国の八木(奈良県)で宿を求めた時に詠まれた句になります。

 

芭蕉の門人・服部土芳の著書には、師である芭蕉の句や門人の句への評価をまとめた「三冊子(さんぞうし)」というものがあります。

 

芭蕉の句の推敲の過程が分かるものもあり、興味深い資料です。

 

「三冊子」によると、この句は「ほととぎす宿借るころや藤の花」という句がオリジナルだったようです。

 

「草臥れて宿借るころや藤の花」の表現技法

(関宿 出典:Wikipedia

 

この句で使われている表現技法は・・・

 

  • 「宿借るころや」の切れ字(二句切れ)
  • 「藤の花」の体言止め

 

になります。

 

「宿借るころや」の切れ字(二句切れ)

切れ字とは、感動や詠嘆を表す言葉で、その句の感動の中心を表します。

 

「かな」「や」「けり」などが代表的で、「…だなあ」というくらいの意味になります。

 

今回の句においては「宿借るころや」の「や」が切れ字に該当します。「宿を借りるころだなあ」という意味になります。

 

また、この句は「宿借るころや」の二句のところで切れるため、『二句切れ』の句になります。

 

「藤の花」の体言止め

体言止めとは、文の終わりを体言つまり名詞で終わることで、印象を強めたり、余韻を残す表現技法のことです。

 

「藤の花」を体言止めにすることで、余計な言葉を用いずして花の見事さを伝えています。

 

「草臥れて宿借るころや藤の花」の鑑賞文

 

この句は、「草臥れて」と言う言葉が特徴的です。

 

意味するところは現代語と変わりません。ふつう詩歌では文語表現を使うことが多いですが、ここは口語表現で砕けた調子になります。

 

一日の旅の疲れをしみじみ感じるとともに、「よくも歩いてきたもんだ。今日も無事にやってきた。」といったような充足感や達成感もにじみます。

 

気取りすぎず、率直な気持ちが伝わってきます。

 

また、「くたびれた」と言いつつ、作者の視線は見事な藤の花に惹きつけられています。

 

だらりと垂れ下がって咲くさまに、今日の旅程に疲れ果てた自分が重なったのでしょうか?

 

それでも、藤の花のみごとさ、美しさを感じる生き生きとした心の働きが句となったのでしょう。

 

一日旅を続けてきて、宿を借りるころになったと言うのですから、時は夕刻であると考えられます。

 

晩春の夕映えに、あでやかに咲き誇る藤の花。宿が慕わしく思われる疲労感。旅情あふれる句です。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳諧師です。

 

寛永21年(1644年)に伊賀国、現在の三重県伊賀市で生まれました。

 

本名は松尾宗房(まつお むねふさ)です。宗房(むねふさ)を音読みにした宗房(そうぼう)を最初俳号としましたが、桃青(とうせい)と言う俳号をへて、芭蕉(ばしょう)という俳号を名乗るに至りました。

 

京都の国学者北村季吟に師事し、のちに江戸にくだります。はじめは日本橋に住んでいましたが、後深川にうつりました。

 

この深川の住まいには、芭蕉という植物が植えられ、深川の住まいは芭蕉庵とも呼ばれました。ちなみに、芭蕉と言う植物はバナナの仲間です。

 

各地を旅して、旅先での出来事や思いなどとともに句を記しました。そうした紀行文のなかで最も有名なものが「おくのほそ道」です。「おくのほそ道」で芭蕉の文学は一つの完成を見たとされ、芭蕉の作風は「蕉風」といってその高い芸術性は世界でも評価されています。

 

元禄7(1694)に大阪(当時の表記は大坂)で客死しました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia