五・七・五のわずか十七音に詠み手の心情や情景を詠みこむ「俳句」。
名句と呼ばれる俳句は数多くありますが、その中で最もよく知られ、他の俳人に大きな影響を与えた人物といえば、「松尾芭蕉」ではないでしょうか?
今回は芭蕉が残した句の中から、【花の雲鐘は上野か浅草か】という句をご紹介します。
花の雲鐘は上野か浅草か
a cloud of cherry blossoms
the temple bell-
is it Ueno? is it Asakusa?#俳句 #haiku 芭蕉 Basho
🎨吉田博 Yoshida Hiroshi pic.twitter.com/H3YQqduGse— 阿部 隆 Abe Takashi (@abeaten_) April 2, 2017
「花の雲」「鐘」とは一体どういう意味を表しているのか、また詠みこめられた情景とはどのようなものだったのでしょうか?
本記事では【花の雲鐘は上野か浅草か】の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「花の雲鐘は上野か浅草か」の俳句の作者や季語・意味
花の雲 鐘は上野か 浅草か
(読み方:はなのくも かねはうえのか あさくさか)
この句の作者は「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。
江戸時代前期に活躍した俳諧師で、「小林一茶」「与謝蕪村」とともに「江戸時代の三大俳人」と称される人物です。
美しい日本の風景に侘びやさびを詠みこむ作風は「蕉風」とも呼ばれ、独自の世界を切り開いていきました。
季語
この句に含まれている季語は「花の雲」で、季節は「春」を表します。
この「花」というのは、花全般を指すのではなく、百花の代表として「桜」を意味しています。平安時代の前期以前は花といえば梅を指しましたが、時代が下るにつれ桜を表すようになりました。
そのため「花の雲」とは、雲がたなびいているかのように桜の花が一面に咲いている様子を指しています。白い花を満開に咲かせた桜を雲に見立てた、日本人らしい美意識を感じる季語です。
なお、花は桜を意味すると解説しましたが、厳密に言うと同一の言葉ではありません。
「桜」と詠むと植物であることに重きがおかれ、肉眼で見た場合に多く使われています。一方「花」となると心に映る華やかな姿に重きをおいた文学的な言葉になり、読み手の心象風景として使われることが多い語です。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「はるかに見渡せば、まるで雲と見間違うほどの桜の花盛り。聞こえてくる鐘の音は上野の寛永寺であろうか、それとも浅草の浅草寺であろうか。」
という意味になります。
「花の雲鐘は上野か浅草か」のが詠まれた場所・背景
(浅草寺「時の鐘」 出典:Wikipedia)
この句は、貞亨4年(1687年)、44歳の頃、当時芭蕉の住んでいた江戸深川(現在の東京都江東区深川)にある「芭蕉庵」で詠まれた句です。
この時まさに江戸幕府は安泰の時を迎え、庶民も太平の世を謳歌していた頃でした。そんな時代を反映するように、この句からも春爛漫ののどかな趣きが感じられます。
この句に詠まれている「鐘」とは「時の鐘」を表しています。現在のように時計が普及していなかった江戸時代において、時を告げる音として庶民の暮らしには欠かせないものです。当初は江戸城内で鳴らしていたようですが、後に市内各所に置かれていきました。
「鐘は上野か浅草か」とは、「上野東叡山寛永寺の鐘の音か」もしくは「浅草浅草寺(せんそうじ)の鐘の音か」ということを吟じています。芭蕉庵から上野と浅草は、約3~4kmとほぼ等距離にあったようです。
そのため、芭蕉庵で句作に没頭する芭蕉は、時を知らせる鐘の音が聞こえてきても、「今の鐘は上野か浅草か、どちらの寺から聞こえてきたものであろうか?」とはっきりとしなかったのでしょう。
この句を読んだ人にも、ゴーンというゆったりとした響きがどこからともなく聞こえてくるようです。
「花の雲鐘は上野か浅草か」の表現技法
「花の雲」と「鐘の音」の取り合わせ
取り合わせとは、季節を表す語とそれ以外の関連性のない語を組み合わせる表現技法のことです。
あえて意外な言葉を合わせることで、句の情景に奥行きを持たせることができます。
芭蕉は俳句においてこの取り合わせを重要視しており、「取り合はせ物と知るべし(意味:俳句は甲と乙の組み合わせによって決まる)」という言葉を残しています。
この句でも「花の雲」から「鐘の音」を連想するかというとそうではありません。むしろ言葉の持つイメージは正反対といえるでしょう。
時刻を告げる「鐘の音」は、庶民の日常生活が連想されますが、淡い色の花びらが一面を覆いつくし、雲が連なるように咲く桜からは、どことなく幻想的な雰囲気が漂います。
この異なる二つの世界が相乗効果を発揮し、深い味わいある一句になっています。
初句切れ
句切れとは、意味や内容、リズムの切れ目のことを指します。
この句でも「花の雲」という最初の五音、つまり初句に切れ目があるので、「初句切れ」となります。
花の雲で一旦切れ目をつくることで、桜の花が満開に咲き誇る様子に重点が置かれ、よりいっそう言葉の持つ意味が強調されています。
「花の雲鐘は上野か浅草か」の鑑賞文
【花の雲鐘は上野か浅草か】は、現代のように光化学スモッグや立ち並ぶ高層ビル群も存在しなかった時代の、ゆったりとした江戸の春を描いた句です。
誰しも美しい桜の盛りの景観を実感することでしょう。
句作に没頭しているところ、静寂を破るように「時を告げる鐘の音」が遠くの方から聞こえてきます。
「あの鐘の音は上野か浅草か、どちらから聞こえてきたものだろうか」と、一気に現実の世界に引き戻される芭蕉。
ふと顔を上げた視線の先には、まるで雲がたなびくように満開の桜が連なって咲き誇って見えるのでした。
この句からはある春の日の感慨深さや、幻想と現実の世界を行き来する芭蕉の姿が詠み取れます。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉(1644~1694年)は伊賀国(現在の三重県)に生まれ、本名は松尾宗房(むねふさ)といいました。芭蕉は俳句が造る人が名乗る名前である「俳号」にあたります。
農民の生まれとされていますが、幼少期の頃は明らかになっていません。10代後半の頃から、当時有名であった京都の北村季吟に弟子入りし、俳諧を学び始めます。
若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みます。武士や商人に俳句を教えるかたわら、数々の作品を発表し「蕉風」と呼ばれる奥深い趣を尊ぶ句風を確立しました。
芭蕉は風雅の世界を求め、日本各地の歌枕を尋ねる旅に出ています。「風雅に死なんとする身なり」という言葉も残し、旅で死ぬことすら望んでいたことが伺えます。
45歳の頃には、弟子の河合會良とともに、約150日間をかけて東北・北陸を巡り、全行程で約2400kmもの距離を歩いたと言われています。この旅の記録をまとめた書が、かの有名な『奥の細道』です。
芭蕉は訪れた地で多くの弟子を獲得し、歳を重ねるにつれ芭蕉を慕う俳人は増えるばかりでした。
そして、最後に西へ向かって旅立ち、大阪で体調を崩した芭蕉は、そのまま51歳の生涯を閉じました。芭蕉の葬儀には300人以上の弟子が参列したといわれています。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)