明治期の正岡子規らに影響を与えた江戸時代の有名俳人「松尾芭蕉」。
松尾芭蕉は旅を愛し、旅行記とその時に詠んだとされる句をまとめた俳諧紀行文を多く書き残しています。
そのなかで最も有名なのが「おくのほそ道」。芭蕉と弟子の河合曾良との江戸から東北・北陸を回り、岐阜の大垣までの旅の記録です。
今回はこの「おくのほそ道」の一句、「五月雨を降り残してや光堂」という句を紹介していきます。
金色堂、ここはよく覚えている。中は金色、外からは黒色堂。「五月雨の降り残してや光堂」精緻な装飾に職人の心意気を感じる。 pic.twitter.com/iqceJ5GNNb
— 門 祐輔 (@yusukemonkyoto) September 10, 2014
本記事では、「五月雨を降り残してや光堂」の季語や意味・表現技法・作者について徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「五月雨を降り残してや光堂」の季語や意味・詠まれた背景
五月雨を 降り残してや 光堂
(読み方:さみだれを ふりのこしてや ひかりどう)
この句の作者は、「松尾芭蕉」です。
この句は岩手県の平泉にある中尊寺金色堂を見て詠んだ一句です。
中尊寺金色堂は平安時代後期建立の仏堂で平安時代の浄土教建築の代表例とされ、建物の内外には金箔がはられています。
季語
この句の季語は「五月雨(さみだれ)」、季節は「夏」です。
「五月雨」とは、梅雨のこと。現代の感覚では梅雨と言えば6月ですが、旧暦では5月に降り続くものだったため、この名がついています。
水田や畑にとって梅雨は必要なものでもありましたが、長く降り続くことで水害があったり、交通に障害が出たり、物がかびたり腐ったりする困った面もあります。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「何もかもを朽ちさせてしまう五月雨も、この光堂だけは降らなかったのだろうか、金色の堂宇が光り輝いていることよ。」
という意味になります。
「五月雨を降り残す」というのは、ややわかりにくい言い回しですが、光堂だけは五月雨を降らせなかったということです。
金色堂が建てられて数百年、毎年五月雨は降ったであろうに、朽ちることなくいまなお輝きを放つ堂宇に感動し、五月雨も光堂だけは避けて降らなかったのだろうかと詠んでいるのです。
この句が詠まれた背景
この句は、「おくのほそ道」の中でも最も有名な句のひとつです。
(※「おくのほそ道」・・・元禄2年(1689年)、松尾芭蕉とその門人の河合曾良(かわいそら)が江戸を出発し、東北・北陸をめぐり、岐阜の大垣までの旅行をまとめた俳諧紀行文のこと)
芭蕉がこの句を詠んだのは、奥州の平泉。(現在の岩手県)
この地はかつて、奥州藤原氏と呼ばれる一族が治めており、京都に続く人口第二位の大きな都市でした。
奥州藤原氏とは、藤原清衡(きよひら)を初代とし、二代目基衡 (もとひら)、三代目秀衡(ひでひら)を指します。
奥州藤原氏は、中尊寺を中興し、そこを中心として仏国土・浄土を作ろうとしていました。しかし、平安時代の末期、源頼朝と対立し、奥州藤原氏をたよって落ちのびてきた源義経とともに奥州藤原氏も滅ぼされました。
芭蕉が平泉の地を訪れたのは、奥州藤原氏が滅ぼされて500年後。
「おくのほそ道」の旅は、奥州藤原氏や源義経への追悼の意味合いも込められていたと言われています。
光堂を訪れる前、芭蕉は藤原氏の残した遺構を見てまわり、古の人々に想いを馳せて涙を流し、
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
(読み方:今でこそ夏草が生い茂っているこの地で、かつては源義経や奥州藤原氏の兵たちが、功名をかけて戦っていたのだ)
という句を詠んでいます。
奥州藤原氏の事跡を伝える多くのものが往時の姿をとどめていないのに対し、光堂が昔と変わらぬ姿であることの驚きがあったのでしょう。
「五月雨を降り残してや光堂」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 切れ字「や」(二句切れ)
- 「光堂」の体言止め
になります。
切れ字「や」(二句切れ)
切れ字とは、「かな」「や」「けり」などが主なものとされ、感動や詠嘆を表します。
意味は「…だなあ」というようなものです。切れ字のあるところにその句の感動の中心があるといえます。
この句は【五月雨の降り残してや】とあり、「ものを腐らせていく五月雨もここだけは降らなかったのだろうか」という意味になります。
何がいいたいのかと言えば、ここ光堂だけは昔と変わらぬ姿をとどめているということで、光堂の往時を伝える姿に作者は強く感動しているのです。
また、この句は二句の「降り残してや」に切れ字がありますので、「二句切れ」の句です。
「光堂」の体言止め
体言止めとは、文の終わりを体言・名詞で終わる技法のことです。余韻を残したり、印象を強めたりする働きがあります。
この句は「光堂」で終わる、体言止めの句です。
創建当時と変わらず、金色に輝く光堂の姿に心を動かされたことを体言止めで表現しています。
「五月雨を降り残してや光堂」の鑑賞文
この光堂を見る前に芭蕉は、平泉の遺構をみて「夏草や」の句を詠みました。
ここで芭蕉が強く感じたのは、世の諸行無常であったでしょう。
古の兵どもが命を懸けて戦った土地も、いつしか夏草の生い茂る野に成り果てる、この世に変わらないものはないという無常観が伝わってきます。
しかし、光堂は500年の時に耐え、黄金に輝いていました。
「夏草や」の句の無常観とはまたちがう、時を超えて変わらないものもあったことへの感動が伝わってきます。
しかし、光堂とて永遠に変わらないわけではありません。
また、芭蕉は下記のように述べています。
【七宝散りうせて珠の扉風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪に朽ちて、既に退廃空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍(いらか)を覆うて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳(ちとせ)の記念(かたみ)とはなれり。】
(意味:金色堂も、かつて柱や壁に飾られていた七宝も取れてなくなり、立派な扉もいたみ、金箔張りの柱も長年の霜や雪のために朽ち果てて、廃墟のような草むらになっていてもおかしくないところである。しかし、四面を新たに囲み、屋根に瓦をつけた、さや堂を作って金色堂を守っている。そのため、長い歴史の中彼見ればわずかな時であるが、いにしえの出来事を今に伝えるものとして、金色堂が残っているものである。)
「奥州藤原氏の繁栄を伝える金色堂は、さや堂というおおいの建物があって、しばらくは昔の出来事を伝えてくれるだろうが、もっともっと長い目でみればいつかは朽ちていく。やはり世は無常なのだ」と言うことを作者は噛み締めています。
「五月雨を降り残してや光堂」の補足情報
曾良の旅日記の記述より
『おくのほそ道』の旅には弟子の河合曾良が同行し、日記をつけていました。
『おくのほそ道』の本文中では「経堂と光堂」を見学していたことになっていますが、曾良の日記を見ると「経堂ハ別当留守ニテ不開(意味:経堂は管理人が留守だったため開いていなかった)」と記述しています。
実はこのことを裏付けるように、『おくのほそ道』の本文中と実際の経堂の描写が実情とは異なっているのです。
芭蕉は経堂に安置された「三将」を「清衡、基衡、秀衡の三将」と書いていますが、実際には「文殊菩薩、優填(うてん)大王、善哉童子の三像」が安置されていました。
実際に見ていれば間違いようがない像のため、見ていないとする曾良の日記が正しいのでしょう。
『おくのほそ道』はその地で見聞きしたものをそのまま書いている時と、紀行文としてのインパクトを重視している時があるため、曾良の日記も読んでみると面白いかもしれません。
芭蕉と光堂
芭蕉は「不易流行(ふえきりゅうこう)」という考え方を持っています。
これは、「いつまでも変わらないものがある一方で、新しく変わっていくものもある」という芭蕉の俳諧の基本概念です。
芭蕉が平泉の古戦場に関しては感極まったような俳句を残している一方で、「暫時千歳の記念とはなれり。」と素っ気ない文章で光堂を称しているのも、いつか光堂も古戦場と同じように変わっていくのだろうという考え方に寄るものでしょう。
しかし光堂、つまり中尊寺金色堂は往時の姿に修復された上で、コンクリート製の覆堂で保護され今日まで残っています。
芭蕉の言うとおり、まさに奥州藤原三代の時代から数えて「千歳の記念」になっているという面白い一幕です。
また、芭蕉は光堂を見て2つの俳句を詠んだことが曾良の日記に記されています。
1つ目が下記の「五月雨や 降り残してや 光堂」の原型となった俳句です。
「五月雨や 年々降るも 五百たび」
(訳:五月雨が降っているなぁ。毎年降っているのだから500回も降っているのだろう。)
もう1つの俳句はおもむきが異なっているもので・・・
「蛍火の 昼は消えつつ 柱かな」
(訳:蛍火が昼は消えていくように、光を失った光堂の柱だなぁ。)
というものです。
この句は百人一首にも収録されている大中臣能宣の和歌(下記)を元にしていると考えられています。
「御垣守(みかきもり) 衛士(えじ)のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ」
(訳:宮中の門を守る兵士のたくかがり火が、夜には燃えて昼には消えるように、もの思いをしています。)
夜であれば目立つ光も、昼の間は消えてしまうと光堂の様子を惜しんだのでしょう。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉、本名・松尾宗房(まつお むねふさ)は、江戸時代前期の俳諧師です。寛永21年(1644年)伊賀国、現在の三重県伊賀市に生を受けました。
身分の高い裕福な家庭の子どもではなく、若いころから伊賀国上野の武士、藤堂良忠に仕えます。
主君の良忠とともに京都の国学者北村季吟に師事するようになり、俳諧を詠み始めます。
主君の良忠は若くして亡くなりますが、芭蕉は江戸へ出て、俳諧師としての人生を歩むようになります。
40代のころから旅に出て、俳諧紀行文をまとめるようになりました。江戸から伊賀への旅をまとめた「のざらし紀行」、江戸から伊賀、さらに西の兵庫までの旅まとめた「笈の小文」など、そのスタイルは徐々に洗練されていきました。芭蕉の俳諧紀行文の最たるものが「おくのほそ道」なのです。
旅に生きた芭蕉は、元禄7年(1694年)に享年50歳で客死しました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)