「五七五」の17音を定型とする俳句は日本が誇る伝統芸能の一つです。
わずか17音で綴られる物語は日本語ならではの文芸であり、その美しさは日本のみならず世界中の人々から高く評価されています。
今回は数ある名句の中でも「ほろほろと山吹散るか滝の音」という松尾芭蕉の句をご紹介します。
ほろほろと 山吹(やまぶき)散るか 滝の音(松尾芭蕉) #俳句 pic.twitter.com/ZOoyQTO6K6
— iTo (@itoudoor) August 1, 2013
本記事では、「ほろほろと山吹散るか滝の音」の季語や意味・表現技法・鑑賞など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。
目次
「ほろほろと山吹散るか滝の音」の作者や季語・意味・詠まれた背景
ほろほろと 山吹散るか 滝の音
(読み方:ほろほろと やまぶきちるか たきのおと)
この句は、貞享5年(1688年)に「松尾芭蕉」が詠んだ一句です。
この句は、『奥の細道』の旅の2年前に書かれた俳諧紀行『笈の小文』に収録されています。
季語
こちらの句の季語は「山吹(やまぶき)」で、季節は「晩春」を表します。暦でいうと4月にあたります。
山吹色の語源ともなる山吹は、細くしなやかな枝に黄金色の花を多数咲かせる植物で、その風情は万葉集以来、たくさんの詩歌で詠まれてきました。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「滝が激しく岩間に轟々と鳴り響き、岸辺に咲きほこる山吹の花は風もないのにほろほろと散る」
という意味になります。
つまり、轟々と激しい音を立てて岩間を流れ落ちる滝を背景に、黄金色の山吹が川岸に咲きみだれ、ほろほろと散っていく様子がとても美しいことを詠っています。
この句が詠まれた背景
この句は、芭蕉が『奥の細道』の旅に出発する2年前に書かれた『笈の小文』に登場する一句です。
『笈の小文』は貞享4年(1687年)10月に江戸を出発し、東海道を下り、尾張・伊賀・吉野・和歌の浦などを経て、須磨・明石を遊覧した際の道中に詠んだ俳句を交えて記録した紀行文です。
この句は、吉野川の上流にある西河(奈良県吉野郡川上村大字西河)の滝を訪れたときに詠まれたもので、吉野は桜だけでなく山吹も有名であることがこの句から伺えます。
各地を旅する芭蕉は、風もないのに「ほろほろ」と散りゆく山吹に自分の人生を重ね、そのはかなさを美しく詠んだ一句です。
「ほろほろと山吹散るか滝の音」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 擬態語「ほろほろ」
- 詠嘆の「か」
- 体言止め「滝の音」
になります。
擬態語「ほろほろ」
この句では、山吹が散っていく様子を「ほろほろ」と表現しています。
「ほろほろ」という言葉は、古くから黄葉の落ちる姿や、衣のほころび、山鳥の鳴き声を表現する際に用いられてきました。
「ほろほろ」という形容は、この句の感動のポイントである「山吹ちるか」と呼応し、読み手の五感を刺激する効果があります。
詠嘆を表す助詞「か」
「山吹散るか」の「か」は詠嘆を表す助詞と捉え、芭蕉は轟々と岩間から激しく流れ落ちる滝の音を聞いて、「この滝の轟きで山吹も散ることだろうよ」と滝の音の強さを詠嘆していると解釈することができます。
句の中では「ほろほろと」と「山吹散るか」とが響き合うことで、花のはかなさを見事に表現しています。
体言止め「滝の音」
「体言止め」は俳句でよく使われる技法の一つで、読み手にイメージを委ね、動詞や助詞が省略されることによってその句にリズムを持たせる効果があります。
この句は語尾が「滝の音」で終わっています。
語尾を「滝の音」で締めくくることによって、滝の音がいつまでも耳に残っている様子を読み取ることができます。
「ほろほろと山吹散るか滝の音」の鑑賞文
「流れ落ちる滝の音が激しく響きわたる中、岸辺に咲いている山吹は風もないのにほろほろと散ることだろうよ」と詠んだこの句は、「音」に焦点を当てた新しい感覚の俳句だといえます。
轟々と激しい音を立てて流れ落ちる「滝」と音もなくほろほろと散りゆく「山吹」を見事に対比させた一句であるといえます。
語尾を「滝の音」で締めくくることによって、滝の音がいつまでも耳に残っている様子を読み取ることができます。
また、風もないのにほろほろと散るはかない山吹の姿に旅に生きる自分の人生を重ね合わせ、「自分の人生もこの山吹のようにはかないものだ」といっているようにも捉えることができます。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
江戸時代前期の俳諧師松尾芭蕉(1644年~1694年)は、三重県上野市(現在の伊賀市)に生まれ、本名を松尾宗房といいます。
芭蕉といえば、芸術性が極めて高い「蕉風」と呼ばれる句風を確立した人物として知られています。
芭蕉が生まれた松尾家は平氏の末裔であったとはいえ身分は農民であり、決して裕福な家庭環境で育ったとはいえません。そのため、芭蕉は幼くして伊賀国上野の武士、藤堂良忠に仕えるため、奉公に出されることとなります。
芭蕉は俳諧を好む良忠の影響を受け、必然的に俳諧を習得していったものと思われます。
1666年、芭蕉が22歳のときに良忠は若くして亡くなり、奉公先を藤堂藩に変えたといわれています。芭蕉は奉公人として務めつつも、俳諧に関しては知られた存在となり、次第に俳諧師としての人生を目指すようになります。
江戸で俳諧師の宗匠としての地位を築き上げた芭蕉ですが、37歳になるとその地位を捨て、深川(現在の東京都江東区)に門人の杉山杉風から譲り受けた番屋を改築して「芭蕉庵」として住むようになります。
その後、仏頂和尚から禅を教わるなどして、それまでの宗匠生活にすっかり別れを告げます。
1984年、40歳のときに『のざらし紀行』の旅に出発して以来、芭蕉は「旅する俳諧師」として数々の作品を残していくようになります。『のざらし紀行』をはじめ『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』、そして『奥の細道』その他多くの著書を残しました。
旅の終わりは1694年、故郷の伊賀国上野を訪れるも帰りの大阪で高熱に見舞われ、弟子たちに見守られながら亡くなったといわれています。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)