【万緑の中や吾子の歯生え初むる】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で四季の美しさや心情を詠みあげる「俳句」。

 

中学校や高校の国語の授業でも取り上げられ、なじみのある句も多くあることでしょう。

 

今回はそんな数ある俳句の中でも「万緑の中や吾子の歯生え初むる」という中村草田男の句に注目します。

 

 

本記事では「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の作者や季語・意味・背景

 

万緑の中や吾子の歯生え初むる

(読み方:ばんりょくのなかや あこのははえそむる)

 

こちらの句の作者は「中村草田男」です。

 

人間探求派の俳人と言われ、生活実感のこもった句を多く読みました。

 

季語

こちらの句の季語は「万緑」で、夏の季語です。

 

万緑とは、夏や山、野原に生い茂る草木の様を表す言葉です。

 

じつは、この「万緑」という言葉は、中村草田男がこの句で初めて季語として使用したと言われています。

 

この句は、中村草田男の句の中で最も有名な句と言われ、この句を詠んだ翌年には、草田男は「萬緑」(萬は万の旧字体)という句集を刊行。数年後には俳句雑誌「萬緑」を創刊します。

 

「万緑」という言葉を中村草田男は、とても大切にしていたことが分かります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「野山は夏らしく草木に覆いつくされて一面の緑の景色だ。そんな中、大切なわが子に初めての白い歯が生えはじめてきたことだ」

 

という意味になります。

 

「吾子」とは我が子のこと、「生え初むる」とは生えはじめてきたということです。「吾子」はやっと歯が生えはじめるころの赤ん坊ということになります。

 

この句が生まれた背景

こちらの句は、昭和14年(1939年)に詠まれた句で、「火の鳥」という句集に収録されています。

 

この句集には、中村草田男の「吾子」や「吾妻(あづま)」(※自分の妻のこと)にまつわる句も多く収録されています。

 

その中には・・・

 

「吾妻かの三日月ほどの吾子胎すか(あづまかのみかづきほどのあこやどすか)」1937年作

(※意味:我妻は、あの、三日月のような形をしているという胎児、我が子である胎児をやどしたというのか)

 

という句があります。

 

体を丸めた胎児の様子を三日月の形にたとえており、妊娠した妻をながめ、胎内にある我が子のことを思って詠んだ句なのです。この年(1937)に長女が生まれています。

 

「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の句が詠まれたのは1939年ですので、「吾子」とは長女のことだったのかもしれません。

 

「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の表現技法

 

こちらの句で用いられている表現技法は・・・

 

  • 「万緑の中や」での切れ字「や」と、中間切れ
  • 対比(緑と白 万緑と一つの歯)

     

    になります。

     

    「万緑の中や」での切れ字「や」と中間切れ

    句切れとは、一句の中で、リズムや意味の上で大きく切れる箇所のことを言います。

     

    この句切れの際には、切れ字「かな」「や」「けり」を用いて句を切ることが多いです。

    (※切れ字・・・感動の中心を表す言葉で、「…だなあ。」などと訳す)

     

    今回の句は、「万緑の中や」の「や」が切れ字になります。

     

    つまり、夏の一面の緑、生い茂った草木の生命力に作者は感動していることを表しています。

     

    また、この「や」は、二句目の途中にあります。

     

    【例】 ばんりょくの(5) なかあこのは(7) はえそむる(5)

     

    このような切れ方を中間切れと言います。

     

    句切れは、句と句の間で句切れる方が読む方も五・七・五の調子をとりやすいため、「初句の五音のところ」または「二句の七音のところ」で切ることが多いです。

     

    しかし、この句は途中であえて句切れを作っています。

     

    このように、リズムをやや壊すことで、万緑の鮮やかさや、のびのびとした生命力を強調していると考えられます。

     

    対比(緑と白×万緑と一つの歯)

    対比とは、いくつかのものを並べて、それらの共通点、または相違点を比べてみせ、それぞれの特性を際立たせて印象を強める技法です。

     

    この句では、「万緑」と「吾子の歯」は一対となって対比されています。

     

    濃い緑色の草木と、小さな歯の白という色彩の対比、生い茂る生命力あふれる草木と、まだか弱い赤ん坊の対比となっています。

     

    対比することで、「万緑」の力強さ、「吾子」の可憐さをよりいっそう際立たせているのです。

     

    また、赤ん坊のことを「みどりご」という言い方があります。「みどり」は、「万緑」の色を表す言葉と同じ音を持ちます。

     

    「万緑」のみどりと、みどりごである「吾子」。掛詞(一つの言葉に、同じ音を持つ複数の言葉の意味を持たせる。和歌でよく用いられる技法。)とまではいきませんが、「みどりご」という言葉を介して「万緑」と「吾子」の取り合わせは複層的なイメージの広がりを見せています。

     

    「万緑の中や吾子の歯生え初むる」の鑑賞文

     

    【万緑の中や吾子の歯生え初むる】は、我が子の成長をいとおしむ親の視点で詠まれた句です。

     

    一番身近で育児をしている母親の視点とも、抱き上げた我が子にはが生えているのを見つけた父親の視点とも取れます。親の我が子への愛情を主題とした句なのです。

     

     

    時はまさに夏、万緑のあふれる生命エネルギーが満ち満ちているころ、我が子もまた確実に成長していることを実感し、しみじみと感動しているのです。

     

    この句は「万緑」という言葉が中村草田男の代名詞ともなるほど有名ですが、もう一つ作長的な言葉があります。

     

    それは「吾子」です。俳句では我が子のことも単に「子」と表現することが多いです。音数の制約がある以上、簡潔な言葉で言い表す方が好まれるわけです。

     

    しかし、ここで草田男は「吾子」という言葉を使いました。

     

    ただの子どもではない、自分の子どもであるからこそ、赤ん坊に歯が生えたというようなことにこれほどまで心を動かされたのだ、というようなことをこの「吾子」という言葉に込めたのでしょう。

     

    この句の話者が小さな歯を見つけた時、赤ん坊は泣いていたのでしょうか?笑っていたのでしょうか?

     

    赤ん坊ですから、大きな声で泣いていてもそれも生命力の証です。笑っていたとしたら、親から見たら何にも代えがたい愛らしいものとして目に映るでしょう。

     

    万緑のころに歯が始める赤ん坊が生まれたのは、まだとても寒い頃でしょう。風邪をひかせないように気を遣って、冷たい外の風から守り、大切に育ててきたことでしょう。

     

    また、この赤ん坊が生まれたころの外の景色は冬枯れだったものが、生命力あふれる万緑の景色へと様変わりしていることも、この句の話者である赤ん坊の親は、時の流れと我が子の成長を実感しているのかもしれません。

     

    「万緑」の伸びやかに生きていることを謳歌するエネルギーや躍動感が、これからますます育っていく赤ん坊の成長を嘉す、祝祭的な句でもあります。

     

    作者「中村草田男」の生涯を簡単にご紹介!

    中村草田男は本名・中村清一郎、昭和期に活躍した俳人であり、俳壇の重鎮ともなりました。

     

     

    明治34(1901)、父が外交官だったため、清国福建省で誕生。生まれて3年後には日本に帰国します。

     

    中村家は、もともとは旧松山藩(愛媛県)の出で、愛媛の松山と東京をいったりきたりしながら成長しました。

     

    中村草田男はドイツの哲学者ニーチェの著書を愛読し、西洋思想にも影響されながら、いつしか文学の道を志すことになります。

     

    その後、同郷の俳人・高浜虚子に師事し、虚子の師である正岡子規の句も学びました。

     

    昭和9年(1934年)には俳句雑誌「ホトトギス」同人となります。

    (※「ホトトギス」・・・正岡子規が創刊に関わり、高浜虚子が主宰していた俳句雑誌のこと)

     

    中村草田男は、加藤楸邨や石田波郷らとともに、人間探求派の俳人と言われました。

     

    人間探求派とは、自己の追求と俳句への追求を重ね合わせ、自らの内面を生活に密着した句で表現しようとした人たちのことです。

     

    昭和21年(1946年)には、俳句雑誌「萬緑」(ばんりょく)を創刊。亡くなる昭和58年(1983年)に82歳まで主宰をつとめました。

     

    中村草田男のそのほかの俳句