【俳句の歴史】簡単にわかりやすく解説!!有名な歴史上の人物や有名句など

 

短い言葉に想いが凝縮された「俳句」。

 

若い人たちには詠むための固いルールがない「川柳」の方が、ニュースでみる機会もあるので親しみやすいかもしれませんね。

 

でも日本人の心に響くからこそ昔の俳句も詠まれ続けているわけで、「俳句」として生まれた歴史や有名句の背景を知るとより奥深さが感じられるかもしれません。

 

 

そこで今回は、俳句の意味・歴史について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

そもそも俳句ってなに?

 

俳句の定義とは何でしょう?

 

俳句とは、原型である連歌(れんが)の上の句である「5・7・5」で作られた定型詩で、十七語、十七音とも呼ばれます。

 

17文字の語数だけではなく、日本の四季のいずれかの季節が感じられるように「季語」と言われるものを入れること、また数少ない言葉でより趣やいきの良さを感じさせるように「や」「かな」「けり」といった「切れ字」といわれる言葉を入れて作るものが決まりとなっています。

 

 

俳句仙人

しかし、字余り字足らずであったり、場面や心情などがよく伝わるもので季語なしで作られたりする俳句もあります。

 

俳句が生まれた歴史や有名人物は?

 

「俳句」が生まれたのはいつでしょうか。これには2つの意味での歴史があります。

 

一つは俳句の元となる「形式」が生まれたのが室町から鎌倉時代だということです。

 

貴族の間で広まっていた、詩句を数人でリレーしながら詠み続けるという優美な遊び「連歌」から始まっています。

 

もう一つの歴史は「俳句」という呼び名が生まれたのは明治時代だということです。

 

連歌の上の句の部分だけを切り取ったものが江戸時代に「俳諧」として広まり、それを明治時代の正岡子規が「俳句」という呼び名でさらに新しい文芸として発展させていったのです。

 

(正岡子規 出典:Wikipedia)

 

俳人として有名なのは江戸時代の松尾芭蕉(まつお ばしょう)、与謝蕪村(よさ ぶそん)、小林一茶(こばやし いっさ)、加賀千代女(かがの ちよじょ)ら。

 

大正・明治時代には正岡子規(まさおか しき)、高浜虚子(たかはま きょし)、中村汀女(なかむら ていじょ)、種田山頭火(たねだ さんとうか)らがいます。

 

俳句の歴史を簡単にわかりやすく解説!

(1)なぜ俳句はできた?俳句のはじまり

室町から鎌倉時代に貴族たちに詠われた連歌の「5・7・5・7・7」から、上の「5・7・5」の「発句」部分だけを短歌として切り取って詠まれるようになったものが俳句の始まりです。

 

(※連歌とは、最初の人が「五・七・五」で発句を詠み、次の人が「七・七」で返すと言う形式を続けていく形式の歌で、最古のものは『万葉集』に収録されています)

 

江戸時代にこの連歌が庶民に広がり親しまれていく中で、徐々に自分たちの生活や世の中を滑稽に風刺したもの笑いをとる作品が多くなったところから「俳優の諧謔(かいぎゃく=しゃれ・ユーモアのこと)」→「俳諧(はいかい)」と呼ばれるようになりました。

 

(2)俳諧から俳句へ

明治時代になって正岡子規がその諧謔的な「俳諧」の陳腐さを嫌い、写生・写実を根本にした新しい詩風へと変革したものを「俳句」と提唱します。

 

しかし、子規の没後になると客観的な俳句を推す高浜虚子の一派と、主観的な気持ちを読む河東碧梧桐の一派に分かれて対立します。このうち、河東碧梧桐の一派からは季語不要論を唱える荻原井泉水が現れます。

 

後に尾崎放哉や種田山頭火など無季自由律俳句に繋がる一派が出現するなど、俳句は多くの人々の創作意識を刺激していきます。

 

その後、熱心な文学活動を起こし、多くの賛同者が集まり広がっていきます。

 

(3)大正から昭和時代の俳句

正岡子規の死後もその考え方は受け継がれ少しずつ変化しながら様々な作風のものも現れ、叙情的なものや人間探求派といった新しい傾向を目指した俳句も多数作られました。

 

昭和時代には杉田久女、中村汀女など一気に女性の俳人も増え近代俳句の礎の一つとなります。

 

戦後はフランス文学者の桑原武夫によって俳句は他の芸術と区別すべきだという「第二芸術論争」が起こりますが、この論争を機に俳壇の伝統派と新興派の互いに流派を超えた活動にもつながりました。

 

(4)今現在の俳句の存在

一時は俳句はご年配の方が楽しむもので愛好家が少なくなった時期もありました。

 

しかし、最近はお茶メーカーの「俳句大賞」や、俳句よりも気軽に作れる川柳のコンテストも多数開催されているので、若者も川柳から入って俳句に親しむ人口が増えてきています。

 

さらには第二次世界大戦後にイギリス出身の文学者「レジナルド・ブライス」により欧米に紹介されたのを機に世界にも俳句の人気は広がっています。

 

欧米では「HAIKU」、中国では「漢俳(かんばい)」として親しまれ、2000年には世界俳句協会も設立されました。また、1989年設立の国際俳句交流協会はユネスコの無形文化遺産登録に向けた活動も行なっています。

 

有名な歴史上の人物と有名句を紹介!

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⑴男性俳人の作品

ここでは、有名な男性俳人の有名俳句をご紹介いたします。

 

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江戸時代に北陸、東北地方を旅して記した「奥の細道」の作者であり、有名な俳句はほとんどがその旅路の中で詠まれたものです。鳴き声が特徴的な蛙をあえて「飛び込む水音」として表現したり、うるさいはずの蝉の声を使って静けさを表すことができるのは芭蕉だけです。

 

俳句仙人
どちらも春のやわらかい暖かさと自然の光を感じられる句ですね。一日中、終日という意味の「ひねもす」に続けて、のたりのたりと同じ語を5と7の句に分けて繰り返す巧さはさすがです。

 

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小さな頃に母親を亡くした後も義母とうまくいかず15歳にして父に外奉公に出され、死別、離婚を経て3回の結婚というあまり家族運に恵まれなかった一茶。痩せたカエルに自身を写して応援した句は心にしみます。「雪とけて」は最初の結婚前に詠んだ句で、雪解けの喜びと自分の気持ちを合わせて素直に表現しているようです。俳句界では門人たちを巡回する親しまれる宗匠として親しまれています。

 

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明治時代に俳諧から「俳句」を確立した子規が、結核で大喀血した年に入院・静養した時に詠んだものです。もともと大の柿好きであり他にも柿の句がありますが、親交の深かった夏目漱石がこれより前に詠んだ「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」への返礼句ではないかとも言われています。

 

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子規から名前を授かった「虚子」は客観主義を受け継いだ俳人です。枯野は冬を示す季語で、遠くに見える寒々しい冬山に日が当たっている景色の描写にホッとしますね。

 

⑵女流俳人の作品

女流俳人の作品には男性には書けない女性ならではの視点があります。

 

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この句はのちに本人の推敲により「朝顔や」と詠み直されています。子規からはもらい水が「俗」な表現だとして切り捨てられていますが、女性ならではの生活の景色で、どちらの表現にも違う味わいがあります。

 

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これも子の面倒をみる母親ならではの視点があります。優しく温かい目で見守りながらも、咳もなぞなぞも終わりが見えなくて少し困ったなという感じが伝わってきます。「きりもなし」ではなく「きりもなや」という表現が秀逸です。

 

まとめ

 

 

✔ 俳句とは「連歌」から「俳諧」を経て確立された「5.7.5」の季語と切れ字のある定型詩であること。

 

✔ 現在では日本だけでなく世界中に俳句の愛好家がいて親しまれていること。

 

✔ 歴史上の有名句は時代・性別、それぞれの様々な人生の背景を基に生まれていること

 

 

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