「俳句」とは、五・七・五の十七音に季節の風景や心情を詠むものです。
日本文化としても知られ、日本語だけでなく、英語で俳句を詠んでいる方も多いです。
今回は、有名俳句の一つ「うつくしや野分のあとのとうがらし」をご紹介します。
うつくしや 野分のあとの とうがらし
蕪村 pic.twitter.com/I2glkGxzJT— Enchan (@0511_enchan) September 22, 2017
本記事では、「うつくしや野分のあとのとうがらし」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「うつくしや野分のあとのとうがらし」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
うつくしや 野分のあとの とうがらし
(読み方 :うつくしや のわきのあとの とうがらし)
※「たうがらし」と表記する場合もあります。
この句の作者は、「与謝蕪村(よさぶそん)」です。
江戸時代中期に俳人や画家として活躍しました。松尾芭蕉や小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人です。
季語
この句の季語は「とうがらし」、季節は「秋」です。
香辛料としておなじみのとうがらしは、実はナス科の植物です。白い花が咲き、青い実をつけ、秋になると真紅に色づきます。
最近では、その色彩の鮮やかさから、鑑賞用として品種改良されたものもあります。正岡子規など、多くの俳人に季語として詠まれ親しまれています。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「台風が去り、秋の空が広がっている。熟した紅い唐辛子の色が、目にしみるようにうつくしい。」
という意味です。
野分とは、台風やその余波として吹く強い風のことです。「のわけ」とも読みます。
実際に、とうがらしの辛さが目にしみたわけではなく、色彩の鮮やかさを強調するために、「目にしみるようにうつくしい」と訳されています。
この句が詠まれた背景
この句は「蕪村遺稿」に載っています。
安永5年(1776年)の作品とされ、蕪村が60歳の頃に詠んだと言われています。
蕪村は、独学で絵を学び絵画のような作品を詠むことが多いです。しかし、詠んだ光景が、実際に蕪村が見たものかは定かではありません。
「うつくしや野分のあとのとうがらし」の表現技法
「うつくしや」の「や」の切れ字
切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。
「や」は上の句(五・七・五の最初の5文字)で使われ、詠嘆の表現や、呼びかけに使われる言葉です。
「なんと美しいことだ!」と感嘆している蕪村の様子が目に浮かぶようです。
また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。この句は初句に「や」がついており、「初句切れ」の句です。
「とうがらし」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法です。
体言止めを使うと、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「とうがらし」の名詞で体言止めすることで、真紅の唐辛子の美しさがより一層引き立ちます。
「野分」と「とうがらし」は季重なり?
野分は、秋の季語です。「とうがらし」も季語ですので、この句に秋の季語が2つあることになります。
このように、1つの句に季語が2つ以上あることを「季重なり」といいます。
俳句は、季語を1つとすることが基本のため、季重なりは避けたほうがよいとされます。
しかし、俳句のなかでどちらの季語が主役の役割か、はっきりしている場合や同じ季節の季語を重ねて、季節を強調させている場合は、季重なりでも良いとされます。
この場合、「野分のあとの」が「とうがらし」を修飾しています。
そのため、どちらが主役かを考えると、「とうがらし」が主役とわかります。
「うつくしや野分のあとのとうがらし」の鑑賞文
与謝蕪村は画家でもあり、その優れた色彩感覚と写実的な手法から「絵のような俳句を詠む」ことを得意としていました。
蕪村の句を詠むと、まるでその情景が1枚の絵のように、自分の目の前に表れてきます。
この句では、台風の風雨で洗われた、鮮やかなとうがらしの紅い色が、はっと目をひきます。
日常の何気ない瞬間の美しさを、俳句として、また1枚の絵として切り取る蕪村の美しい感性が表れた句です。
作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
与謝蕪村は、享保元年(1716年)摂津国、現在の大阪府大阪市に生まれました。
本名を谷口信章といい、与謝の姓は結婚してから、蕪村という雅号は40歳近くなってから名乗ったものとなります。
画家としても才能があり、俳句を賛した簡単な絵を添える俳画を、芸術の様式として完成させました。
蕪村は、俳諧の祖と言われる松永貞徳や、江戸前期に活躍し俳諧の芸術性を高めていった松尾芭蕉に強いあこがれと尊敬の念を持っていました。のちに蕪村は芭蕉の足跡である「おくのほそ道」を実際にたどるため東北地方や関東地方を周遊しています。
丹後地方や讃岐に住み、晩年は京都にて過ごしました。そして天明3年(1784年)68歳で永眠しました。
明治以降の正岡子規や昭和初期の萩原朔太郎らの発表により、作品が評価されるようになりました。
与謝蕪村のそのほかの俳句
(与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia)
- 夕立や草葉をつかむむら雀
- 寒月や門なき寺の天高し
- 菜の花や月は東に日は西に
- 春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
- 夏河を越すうれしさよ手に草履
- 斧入れて香におどろくや冬立木
- 五月雨や大河を前に家二軒
- ゆく春やおもたき琵琶の抱心
- 花いばら故郷の路に似たるかな
- 笛の音に波もよりくる須磨の秋
- 涼しさや鐘をはなるゝかねの声
- 稲妻や波もてゆへる秋津しま
- 不二ひとつうづみのこして若葉かな
- 御火焚や霜うつくしき京の町
- 古庭に茶筌花さく椿かな
- ちりて後おもかげにたつぼたん哉
- あま酒の地獄もちかし箱根山