【元日や上々吉の浅黄空】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

俳句は、「五七五」のわずか17音で物語を綴る非常に短い詩です。

 

このように短い詩は世界でも類を見ない高度な芸術として、高く評価されています。

 

今回は、数ある名句の中から「元日や上々吉の浅黄空」という小林一茶の句をご紹介します。

 

 

本記事では、「元日や上々吉の浅黄空」の季語や意味・表現技法・鑑賞など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。

 

「元日や上々吉の浅黄空」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

元日や 上々吉の 浅黄空

(読み方:がんじつや じょうじょうきちの あさぎぞら)

 

この句の作者は江戸時代に活躍した「小林一茶」です。

 

一茶は江戸時代に活躍した俳人。その生涯において約22,000もの句を作ったといわれており、その数は松尾芭蕉の約1,000句、与謝蕪村の約3,000句と比較しても群を抜いています。

 

季語

こちらの句の季語は「元日」です。

 

季節は「冬」、暦では1月の季語になります。

 

「元日」という言葉は時間概念を含む表現であるため、厳密な意味で季語はないとする考えもあります。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「元日から真っ青な青空で、この上なく縁起が良い」

 

という意味になります。

 

「上々吉」は「このうえなくよい」「この上なく縁起が良い」といった意味で、「浅黄」は浅葱(あさぎ)の当て字で、青色に近い藍色を指します。

 

この句が詠まれた背景

この句は、小林一茶の自選自筆句集『浅黄空(あさぎぞら)』の巻頭の句です。

 

『浅黄空』は、書かれた時期は明らかではありませんが、一茶の晩年文政8年~9年(1825年~1826年)頃に執筆されたものと言われています。

 

つまり、一茶が生涯を閉じる2~3年前(62歳~63歳)の作品ということになります。

 

彼の人生は苦難続きで、まさに波乱万丈ともいえる厳しい生涯を送っています。

 

50歳で故郷に帰った一茶は51歳の時に初めて女性と結婚。

 

次々と子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、9年間連れ添った最愛の妻も37歳の若さで亡くなってしまいます。

 

一人ぼっちになってしまった一茶ですが、「傷心をいつまでも引きずってはいられない」という気持ちの表れからこのような前向きの句を詠んだのかもしれません。

 

「一年の計は元旦にあり」ではないですが、何事も最初が肝心であるという戒めを意味し、全体的にうまくいきそうな感じを抱かせる様子で締めくくっています。

 

「元日や上々吉の浅黄空」の表現技法

 

この句で使われている表現技法は・・・

 

  • 切れ字「や」
  • 体言止め「浅黄空」

 

になります。

 

切れ字「や」

「切れ字」とは作者の感動の中心を表す言葉のこで、俳句ではよく用いられる技法です。

 

代表的な「切れ字」には「かな」「や」「けり」などがあり、意味としては、「…だなぁ」といった感じに訳すことが多いです。

 

この句は「元日や」の「や」が切れ字に当たります。

 

「元日だなぁ」と、「や」を用いて今日が元日であることを強調しています。

 

体言止め「浅黄空」

語尾の「浅黄空」は名詞で終わる「体言止め」という技法を使っています。

 

「体言止め」にすることで、詳細な説明を省き、余韻の効果を持たせることができます。

 

この句は「浅黄空」で終わっていますので、読み手にすがすがしく幸先のよい年明けの朝を彷彿とささる効果があります。

 

「元日や上々吉の浅黄空」の鑑賞文

 

「元日や」から始まるこの句は、何気ない元日の風景を「上々吉」「浅黄空」と表現することで、幸先のよい年明けを表しています。

 

「浅黄」とは、浅葱(ネギの古語)の当て字で、わずかに緑色を帯びた薄い青色の浅葱から、雲一つない晴れ晴れとした気持ちの良い朝を表現しています。

 

この句を詠んだ晩年の一茶は、ようやくめとった妻との間に生まれた子どもを立て続けに亡くし、さらには妻をも亡くす…という波乱万丈ともいえる厳しい運命に身をさらされます。

 

そんな中でも、一茶は「今年の元旦は、とびっきり上等の元旦だ!真っ青に広がる青空も、なんと気持ちのよいことか!」と、自らの不運な運命とは真逆のキラキラと輝く1年を想像して詠んだともいえます。

 

句からは想像もできないほどの一茶の深い感情が詰まった句となっています。

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶(1763年~1828年)は本名を小林弥太郎といい、長野県の北部にある北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に長男として生まれました。松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人の一人として知られています。

 

一茶は若い頃に立て続けに生母、そして唯一の理解者であった祖母をなくし、15歳の春に江戸へ奉公に出されます。

 

その後は奉公先を点々と変えながら、20歳を過ぎた頃から俳句の道を志すようになります。

 

家庭環境には恵まれなかった一茶ですが、俳句の才能には恵まれ、数々の句日記、句文集を残し、生涯に渡って一茶が作った俳句の数は2万句にもおよぶといわれています。

 

波乱万丈ともいえる厳しい人生を強いられた一茶の作風は、人生における数々の苦労からか、日常の些細な出来事や身近な風景が描かれることが多く、温かく、親しみを覚える内容が特徴です。

 

小林一茶のそのほかの俳句

一茶家の土蔵 出典:Wikipedia

 

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