【牡丹百二百三百門一つ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

詠み手の心情や背景に思いをはせて、いろいろと想像してみることも俳句の楽しみのひとつかもしれません。

 

今回は、有名な句の一つ「牡丹百二百三百門一つ」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「牡丹百二百三百門一つ」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「牡丹百二百三百門一つ」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

牡丹百 二百三百 門一つ

(読み方:ぼたんひゃく にひゃくさんびゃく もんひとつ)

 

この句の作者は、「阿波野青畝(あわのせいほ)」です。

 

阿波野は奈良県出身の俳人で、原田浜人、高浜虚子に師事しました。昭和初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称されました。

 

季語

この句の季語は「牡丹」、季節は「夏」です。

 

「牡丹」は晩春から初夏にかけて直径10〜20センチの大きな花をつけます。

 

その豊麗さから花の王・花神・富貴花などの異名をもちます。中国原産で、平安時代初期に薬用植物として渡来し、はじめは寺院で栽培されていました。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「牡丹が百、二百、三百と見渡す限り咲いている。一面の牡丹の奥にはお寺の門が一つ建っている。」

 

という意味です。

 

今回「門一つ」の門の場所は牡丹の奥としましたが、後ろを振り返った時に見える入口の門と解釈する人もいます。

 

後者の解釈は、牡丹園を歩いてきた道のりを感じられる句になります。

 

この句が詠まれた背景

この句は、『紅葉の賀』という句集に収められています。

 

高野山にある牡丹寺で詠まれた作品と言われています。

 

その縁か、高野山の増幅院の山門前にはこの句の歌碑が建っています。

 

高野山の普賀院は、戦後間もない頃の住職がホトトギスの同人であったことから子規や虚子を祀っていて、俳句に親しむ人々が訪れる場所となっています。

 

青畝の師である虚子も記念講演に訪れたため、山内にはホトトギスゆかりの人たちの句碑が数多く建てられています。

 

「牡丹百二百三百門一つ」の表現技法

数詞の多用

牡丹は一輪で咲くというよりは、低木に何輪か咲いていることが多い花です。

 

いくつも花をつけた低木が一面に植えられている様子を、「百」「二百」「三百」と数詞をたたみかけることで表現しています。

 

牡丹の華やかさが眼前に迫ってくるような迫力があります。

 

「三百」までで空間の広がりを見せたところで、最後に「門一つ」とすることで、焦点がぎゅっと絞られ句全体が引き締まります。

 

目に浮かぶ映像もくっきりしますし、「百」「二百」と数字が大きくなっていくところに最後は「一」という小さな数字がくるところは、言葉遊び的な面白さがあります。

 

「牡丹百二百三百門一つ」の鑑賞文

 

青畝は庶民的で親しみやすい句を作ると評されます。

 

今回の句の平易な言葉遣いや数詞を多用した言葉遊びのユーモアも、親しみやすさを感じさせます。

 

用いられている数詞が「百」や「二百」というアバウトな数字であることから、明らかな誇張でわざとらしい印象を受ける人もいるようです。

 

しかし、この誇張が園から溢れんばかりの牡丹の多さや、その多さに対する素直な驚きが表現されているともとれます。

 

作者「阿波野青畝」の生涯を簡単にご紹介!


青畝は、明治32年(1899年)210日、奈良県高市郡高取町に士族の家系の四男として生まれました。

 

幼少期には耳を患い難聴となってしまいます。

 

大正2年に奈良県立畝傍中学校に入学し、大正4年に俳句雑誌『ホトトギス』を知ります。その後奈良県立郡山中学校で教師をしていた『ホトトギス』同人の原田浜人に俳句を学びます。

 

大正6年、郡山の句会で俳人高浜虚子と出会い、師事します。畝傍中学校を卒業後、八木銀行に入行しますが、俳句雑誌『山茶花』の創刊に参加するなど、俳句活動も精力的に行います。

 

大正13年、25歳の若さで『ホトトギス』の課題選者に就任します。郷里である奈良県八木町の俳人らが俳句雑誌『かつらぎ』を創刊すると、請われて主宰となります。

 

昭和48年、句集『甲子園』などで第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞を受賞。翌年には大阪府芸術賞を受賞します。その後もいくつもの賞を受賞したり、俳人協会の顧問になったりと、俳人としての箔がついていきます。

 

平成41222日、兵庫県尼崎市の病院で心不全により93歳で死去します。この日は「青畝忌」として冬の季語となっています。

 

ちなみに青畝は3度結婚しています。最初と2番目の妻に先立たれているのです。

 

昭和22年にはカトリック教会に入信しており、アジアの聖フランシスコ阿波野敏雄(敏雄は本名)という洗礼名をもっています。

 

阿波野青畝のそのほかの俳句

 

  • あをぞらに外套つるし古着市
  • さみだれのあまだればかり浮御堂
  • ほのぼのと渚は近江初月夜
  • モジリアニの女の顔の案山子かな
  • ルノアルの女に毛糸編ませたし
  • 土不踏なければ雛倒れけり
  • 小説を抜け出して哭く雪女
  • 出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり
  • 南都いまなむかんなむかん余寒なり