【我と来て遊べや親のない雀】俳句の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説!!

 

江戸時代の三大俳人にも数えられる「小林一茶」。

 

一茶の句はあどけない子供や雀・かえるといった小動物を題材にしたものが多く、親しみやすい独自の俳風は「一茶調」と呼ばれることもあります。

 

今回は、そんな一茶が残した数多くの俳句の中でも誰もが一度は聞いたことがある【我と来て遊べや親のない雀】という句を紹介していきます。

 

 

本記事では、『我と来て遊べや親のない雀』の季語や意味・表現技法など徹底解説していきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「我と来て遊べや親のない雀」の季語や意味・俳句が詠まれた背景

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我と来て 遊べや親の ない雀

(読み方:われときて あそべやおやの ないすずめ)

 

この句の作者は「小林一茶(こばやし いっさ)」です。

 

この句は俳句集「おらが春」に収められており、作者名に「六才 弥太郎」と記されています。

 

ただ本当に六才の頃に作ったわけではなく、弥太郎と呼ばれていた少年時代を追慕し後年の一茶が作ったとする説が有力です。

 

 

季語

この句に含まれている季語は「親のない雀(=雀の子)」で、季節は「春」を表します。

 

「雀」は渡り鳥のように季節によって長距離移動する習性は無く、一年中見かける身近な鳥です。

 

そのため、「雀」単体では季語になりません。

 

俳句仙人

しかし、雀は3月~4月頃に繁殖を始め卵からかえり雛になることから、「雀の子」の場合は春を表す季語となります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「親とはぐれ一羽で遊ぶ寂しそうな子すずめよ、母を亡くした私はお前と同じだ。こちらへ来て一緒に遊ぼうじゃないか。」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

この句は、一茶の孤独な少年時代を回想して詠んだ句といわれています。

 

一茶は北信濃(現在の長野県)で、中農の長男として生まれました。

 

しかし、わずか3歳で生母を亡くし、祖母の手で大切に育てられました。そして、7歳のときに父が再婚しますが、継母とは折り合いが悪く馴染むことができませんでした。

 

やがて腹違いの弟が生まれると、継母との仲はますます悪くなります。

 

そして13歳の時には、唯一の味方であった祖母も亡くなり、一茶は15歳で江戸に奉公に出されました。

 

俳句仙人

当時、比較的裕福な農家のしかも長男が奉公に出されることは異例なことだったようです。

 

「我と来て遊べや親のない雀」の表現技法

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この句には「切れ字」と「体言止め」が効果的に使われています。

 

「遊べや」の切れ字「や」はじつは方言?

この句での切れ字は「遊べや」の「や」にあたり、文中の語の下につけることで詠嘆や呼びかけを表現しています。

 

「や」を使うことにより、一茶が子雀に向かって呼びかけているのが分かります。

 

ただしこの「や」を切れ字とするのではなく、方言だとする説もあります。

 

北信濃では古くから「遊べや」は、子供が「遊びましょうよ」と声をかけるときに使われています。

 

俳句仙人

そのため、一茶はこの句を詠んだ際、北信濃で暮らした幼少の気持ちに戻り、子雀に「遊べや」と呼びかけたのでは?とも考えられています。

 

体言止め「ない雀」

体言止めとは、俳句の最後を助詞や助動詞ではなく、体言(名詞)で止める表現方法です。

 

この表現を用いることで言葉が強調され、余韻や情緒が生み出されます。

 

この句では「親のない雀」と体言止めが使われており、現代語訳では「親とはぐれた子雀よ・・・」と余韻を表現しています。

 

俳句仙人

親からはぐれた一羽で遊ぶ子雀の寂しさや、それを見守る一茶の優しさを印象強く感じられます。

 

「我と来て遊べや親のない雀」の鑑賞文

スズメ, スパーリング, ビル, 鳥, 羽, 羽毛, 動物, 鳥の浴室

 

一読するとのどかな春の光景を詠んだ句のようですが、幼くして母を亡くした自身の姿を子雀に重ねての一句だと知ると、悲しみがひしひしと伝わってきます。

 

継母との確執により家族の中でも孤立していった一茶は、自分には居場所が無いと感じていたことでしょう。

 

辛い少年時代が、一茶の内向的な性格そして詠まれる俳句にも大きな影響を与えたといわれています。

 

ですが、そんな一茶だからこそ、彼の生み出した俳句には小さな生き物にも愛情をこめて詠んだ句が多いのかもしれません。

 

「我と来て遊べや親のない雀」の補足情報

『おらが春』の前詞

この句は『おらが春』に収録されていますが、前詞には孤独だった作者の子供時代が描写されています。

 

「親のない子ハとこても知れる、爪を咥へて門に立、と子ともらニ唄はるるも心細く、大かたの人交りもせすして、うらの畠ニ木・萱なと積たる片陰に跼りて、長の日をくらしぬ。我身ながらも哀也けり。」

(訳:「親のない子供はどこでもわかる、爪をくわえて門前に立つ」と子供らに唄われるのも心細く、普通の人付き合いもしないで、裏の畑の木・萱などを積んである陰にうずくまって、長い日々を過ごしていた。自分のことではあるが、哀れなことであった。)

俳句仙人

この句の前後には継母や継子との因縁も多く書かれており、作者の子供の頃の思い出を思い起こされる部分が多く記されているため、作者の悲しみややるせなさが感じられます。

 

「遊ぶや」からの推敲

この句は『おらが春』が初ではなく、『七番日記』に1文字違いの句が掲載されています。

 

「我ときて 遊ぶや親の ない雀」

(訳私と一緒に来て遊んでいる親のいない雀よ)

 

「遊ぶや」と「遊べや」の1文字違いでかなり印象が変わってくるのがわかるでしょう。

 

「遊ぶや」の方では子雀が作者の後を勝手に着いてきて雀だけで遊んでいる雰囲気が感じられます。

 

一方で、「遊べや」の方では「一緒に遊ぼう」という子雀への呼び掛けになっており、作者も一緒に遊びたいのだという意味です。

 

前者では作者と子雀は別々に遊んでいるように見えるので、作者と親を亡くした子雀がイコールになりません。

 

しかし、後者では作者が呼びかけることによって、親を亡くした子供同士遊ぼうよ、と誘っているように感じるのです。

 

俳句仙人

前述の親のない子供の悲しみを記した前詞と合わせると、『七番日記』の頃からの推敲の跡が見えてきます。

 

何歳の時の俳句?

『おらが春』では前述の通り6歳の時の俳句になっていますが、推敲前の『七番日記』では8歳の時に作ったことになっています。

 

『七番日記』から『おらが春』の間に推敲の跡が見られることから、本当に子供の頃に詠んだかは疑問です。

 

しかし、6歳から8歳の間に祖母だけを頼りに生きてきた作者の孤独感を投影したものだと考える説もあります。

 

俳句仙人

明確に何歳の時に詠んだと確定できるものではないのかもしれませんね。

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶(1763-1827)は、江戸を代表する俳人の一人です。

 

奉公先の江戸で俳諧の世界に目覚め、二六庵・小林竹阿や今日庵・森田元夢らに師事して俳句を学びます。

 

29歳の頃14年ぶりに故郷に帰った一茶は、倒れた父親の最後を看取ることとなります。

 

父は財産を一茶と弟達で二分するよう遺言を残しますが、継母たちが反対したため遺産相続争いは12年もの間続きました。

 

その後、継母たちと和解し郷里に帰住した一茶は、52歳にして初婚を迎えます。

 

三人の子宝に恵まれましたが、いずれも幼くしてなくなり、追い討ちをかけるように妻までも逝去します。

 

その後二度の再婚を繰り返し、最後の妻との間に子供を授かります。

 

しかし、一茶は持病の発作により65歳の生涯を閉じました。

 

小林一茶のそのほかの俳句

一茶家の土蔵 出典:Wikipedia