五・七・五で情景や心情を詠む「俳句」。
俳句について学ぶためには、優れた俳人について知ることや、名句を味わうことが大切です。
俳句の鑑賞文 やっと終わった… pic.twitter.com/lhzDOrUxHp
— キル🍮🤝🥝 (@Hagane514) May 1, 2016
そこで今回は、「江戸時代の三大俳人」として知られている三人の人物と、それぞれの名句をご紹介していきます。
わかりやすく解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
江戸時代の三大俳人とは?
江戸時代の三大俳人とは、江戸時代に俳句の世界で多大なる功績を残した人物3人のことです。
その3人とは、「松尾芭蕉」「与謝蕪村」「小林一茶」です。
俳句という文学の定義が誕生したのは明治時代ですが、江戸時代にはすでに俳句のもとである「俳諧(はいかい)」が存在していました。
俳諧とは、連歌から派生したもので、一首の短歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を二人以上で詠み合い、繋げていくものです。
そのため、三大俳人が残した名句は、正確には「俳句」ではなく「発句」という俳諧の最初の一句目(五・七・五)です。明治時代になり、「発句」を「俳句」と呼ぶようになり俳句が誕生しました。
俳諧を発展させ、名句を残し、俳句の誕生や多くの俳人に大きな影響を与えたのが、松尾芭蕉・与謝蕪村・小林一茶の三人でした。
松尾芭蕉の生涯と功績、作風について
ここでは、江戸時代の三大俳人のひとり「松尾芭蕉」について詳しく解説していきます。
生涯と功績
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、1644年に伊賀国(三重県)に生まれました。
農民の家に生まれ、少年時代は藤堂良忠に仕えていました。19歳の時、京都の北村季吟の門人となり、俳諧の道へ進みます。「宗房」という俳号で句を詠み、しだいに名が知られるようになると、江戸に出ます。
神田上水の工事に携わりながら俳諧師を目指し、宗匠(=俳諧などの師匠)となると俳号を「桃青」としました。そこから多くの作品を発表していましたが、36歳の時に深川に居を移して句を詠むようになりました。俳号を「芭蕉」とし、このころから漢詩調の文芸性の高い句を詠むようになり、「蕉風」と呼ばれる俳諧を確立していきました。それまでの和歌や連歌の決まりにとらわれずに自由で叙情性のある蕉風俳諧は、俳諧を芸術にまで高めました。
そして、芭蕉は旅を愛していました。深川に移り住んだ後、旅をしながら句を詠み、『野ざらし紀行』『笈の小文』『おくのほそ道』などの優れた紀行文を著しました。
『おくのほそ道』の旅に出たのは芭蕉が46歳の時であり、当時としては高齢であったことから、二度と帰らない覚悟で住む家を人に譲り、門人の曾良(そら)と共に旅に出ました。
その後、無事に旅が終わり、5年をかけて『おくのほそ道』を完成させます。しかし、この直後に病気になり、1694年、芭蕉は51歳の時に旅先の大阪で生涯を閉じました。
松尾芭蕉は多くの名句を残し、俳諧を芸術にまで高めた芭蕉は、後世では「俳聖」として知られるようになりました。
作風
松尾芭蕉の俳句の特徴として、漢詩調で文芸性が高いという点が挙げられます。
また、蕉風俳諧の精神を表す言葉として「かるみ」「わびさび」というものがあります。
- かるみ・・・日常の身近な題材から新しい美を発見し、さらりと表現する
- わびさび・・・静けさやわびしさの中に美を発見し、表現する
『おくのほそ道』の旅では、次のような名句を残しています。(ここでは5句紹介します)
【NO.1】
『 閑さや 岩にしみいる 蝉の声 』
季語:蝉(夏)
意味:静かだなぁ。岩にしみ入るように蝉が鳴いている。
立石寺という山寺を訪れた際の句です。芭蕉は眼下に見える広大な大地から、現実離れした「閑さ」を感じました。周りでは蝉が鳴いていますが、心は静かで落ち着いている。そのような「閑さ」を詠んだ句であり、「わびさび」が表れている句です。
【NO.2】
『 夏草や 兵どもが 夢の跡 』
季語:夏草(夏)
意味:夏草が青々と生い茂る。かつて栄華を極めた者たちが力を振るっていたこの場所は、今は草が生い茂る夢の跡となってしまった。
平泉を訪れた際の句です。平泉はかつて奥州藤原氏が栄華を極めた場所でした。芭蕉は草が生い茂る平泉を見て、人間や人間社会の儚さを強く感じていました。眼前に広がる景色に昔を偲ぶ想いを重ねた、文芸性の高い句です。
【NO.3】
『 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 』
季語:行く春(春)
意味:春が過ぎ去っていく。鳥が泣き魚の目に涙がたまるように別れが惜しい。
この句は『おくのほそ道』で見送りに来た人々との別れのときに詠まれた句です。見送りに来た人たちを魚や鳥に例え、各々が別れを惜しんでいる様子を擬人化法で表現しています。
【NO.4】
『 荒海や 佐渡に横たふ 天の川 』
季語:天の川(秋)
意味:荒い日本海だなぁ。遠く見える佐渡ヶ島の上に横たわるのは天の川だ。
この句は海、島、天の川というダイナミックな自然をひとつにまとめた壮大な一句です。島影が浮かび上がっていていることから、月ではなく星の光でぼんやりと島が見えたのでしょう。
【NO.5】
『 蛤(はまぐり)の ふたみにわかれ 行く秋ぞ 』
季語:行く秋(秋)
意味:ハマグリの見が二見に分かれるように、私も二見浦に行くために分かれ過ぎていく秋だ。
この句は「ふたみ」にハマグリの「二つの身」と、「二見浦」という景勝地へ出発しようとする芭蕉の心が掛かっています。到着もそこそこに、芭蕉はまたしても旅を始めようとしている一句です。
芭蕉絶筆の句として有名なのが、次にあげる俳句です。
【芭蕉絶筆の句】
『 旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる 』
季語:枯野(冬)
意味:旅に病んだとしても、夢は枯野をかけめぐっている。
辞世の句というよりは、絶筆の句という表現が正しい一句です。芭蕉は最後まで「枯野を廻る夢心」と悩んでいたと言われています。
与謝蕪村の生涯と功績、作風について
ここでは、江戸時代の三大俳人のひとり「与謝蕪村」について詳しく解説していきます。
生涯と功績
(与謝蕪村 出典:Wikipedia)
与謝蕪村(よさぶそん)は、1716年に摂津国(大阪府)に生まれました。
10代で両親を亡くした後、20歳で江戸に出て、夜半亭巴人に俳諧を学びます。巴人は松尾芭蕉の孫弟子であったため、蕪村は芭蕉に強い影響を受けました。
27歳の時に巴人が亡くなると、下総国結城に身を寄せます。その後、俳諧修行のために十年近く、絵を描いて宿代にしながら芭蕉の『奥の細道』のゆかりの地を巡ったり、同門の俳人を尋ねたりして放浪の旅をしました。この旅は『歳旦帳』という手記にまとめられています。このころ、初めて俳号を「蕪村」としました。
42歳になると京都に住居を構え、「与謝」と名乗るようになります。40代以降は京都の寺院に保管されている古典絵画から絵を学び、絵画の制作に励みました。また、京都に住む多くの俳人とも交流を重ね、後に俳句に絵を入れる「俳画」を確立させました。
蕪村の俳画の代表的な作品は『奥の細道図巻』で、芭蕉の『おくのほそ道』を書き写し挿絵を入れた作品でした。蕪村は俳諧においては「蕉風回帰」を目指しつつ蕉風をさらに発展させ、天明調の句を確立しました。
55歳になると、夜半亭二世として宗匠になり、以後は京都で生涯を過ごしました。そして1784年、蕪村は68歳の時に生涯を閉じました。
画家としても俳諧師としても優れていた蕪村は、俳画の確立や天明調の確立という功績を残し、俳諧、絵画、俳画と多くの優れた作品を生み出しました。
作風
与謝蕪村の俳句の特徴として、単なる写実ではなく叙情詩の要素がある「優雅さ」が挙げられます。
この優雅さが、蕪村の確立した天明調の特徴です。また、画家でもあったことから、俳句においても色彩感覚が豊かで、情景が浮かぶ絵画のような句と評されてもいます。
特に有名なのが次の句です。
【NO.1】
『 菜の花や 月は東に 日は西に 』
季語:菜の花(春)
意味:菜の花が一面に咲いている中、月が東から昇り、太陽は西に沈みかけている。
東から西へ、視線が大きく移動することにより、広い空間が表現されています。また、一面に咲く菜の花の黄色、東から昇る月の金色、東に沈む夕日の赤色のように、豊かな色彩で春の情景が詠まれています。
【NO.2】
『 春の海 終日 のたりのたりかな 』
季語:春の海(春)
意味:春の海が一日中のたりのたりと波を立てていることよ。
「のたりのたり」という擬態語で春の海の穏やかな様子を表しているのが特徴的です。「終日(ひねもす)」という言葉と合わさり、春の海の穏やかさをよく表しています。また、穏やかな海を見ながら感傷に浸る蕪村の想いが感じられます。
【NO.3】
『 五月雨や 大河を前に 家二軒 』
季語:五月雨(夏)
意味:さみだれで増水した川が迫っている。大我を前に家が二軒ぽつんと取り残されている。
家が二軒しかない、というところに「大河」の勢いの激しさが伺いしれます。この家は無事だったのか、飲み込まれてしまったのか、ハラハラする一句です。
【NO.4】
『 鮎くれて よらで過ぎ行く 夜半の門 』
季語:鮎(夏)
意味:鮎をくれたのに、家で休まないで言ってしまった夜半の門だ。
「夜半」とは、午前0時という当時としてもとても遅い時間です。そんな時間なのだから休息をと促しても通り過ぎて言ってしまった人を見送っている一句になっています。
【NO.5】
『 うつくしや 野分のあとの とうがらし 』
季語:野分(秋)
意味:美しいなぁ。野分の後に散らばったこのとうがらしは。
野分とは現在の台風のことです。台風で身が落ちたのか、一面に赤いとうがらしがころがっています。その鮮やかな色彩に感動している一句です。
小林一茶の生涯と功績、作風について
ここでは、江戸時代の三大俳人のひとり「小林一茶」について詳しく解説していきます。
生涯と功績
(小林一茶 出典:Wikipedia)
小林一茶(こばやし いっさ)は、1763年に信濃国(長野県)に生まれました。
幼くして母を亡くし、その後一茶が8歳の時に父親は再婚します。しかし、継母になじめず、14歳で江戸に奉公へ出ることになります。奉公先を転々としながら25歳になったころ、二六庵竹阿に学んで俳諧の道へ進みました。初めは色々な俳号を名乗っていましたが、やがて俳号を「一茶」としました。
そして30歳から36歳まで、俳諧修行のために関西・四国・九州を渡り歩きます。その後、一茶の俳諧に対する世間の評価は高まっていましたが、私生活では39歳で父を亡くし、継母と弟と財産争いが続くなどの気苦労がありました。
50歳で故郷へ帰り、ようやく継母と弟と和解し結婚して子宝にも恵まれましたが、妻子に先立たれてしまうなど不運が続きました。
そんな中、俳諧においては門人への指導や出版活動を行い、句文集『おらが春』や『一茶発句集』などを著しました。
そして1827年、一茶は65歳の時に生涯を閉じました。
一茶は生涯で約2万句にもおよぶ句を残しました。芭蕉の9百句、蕪村の3千句と比べて圧倒的な数です。
作風
小林一茶の俳句の特徴として、庶民らしい親しみのある表現や、擬声語や擬態語を巧みに用いている点が挙げられます。
これらの特徴は一茶調ともいわれ、親しみのある表現の中に人間味が感じられる一茶の句は、多くの人に愛されました。また、子どもや小動物を句に詠むことが多いという特徴もあります。
特に有名なのが次の句です。
【NO.1】
『 雪とけて 村いっぱいの 子どもかな 』
季語:雪とけ(春)
意味:雪が解けて、子供たちが村いっぱいに外に出て遊んでいることだ。
春になって雪が解け、外で嬉しそうに遊ぶ子どもたちの姿を詠んだ句です。嬉しそうな子どもたちを暖かく見守る、一茶の優しいまなざしが感じられる句です。
【NO.2】
『 雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る 』
季語:雀の子(春)
意味:雀の子よ、そこをどいたどいた、御馬が通るぞ。
ぴょんぴょんと道を歩く雀の子に対して呼びかけている句です。「そこのけそこのけ」と繰り返しているのが、どこか大げさで面白みがあります。雀の子を愛でる一茶の気持ちが伝わってきます。
【NO.3】
『 やせ蛙 負けるな一茶 これにあり 』
季語:やせ蛙/ヒキガエル(夏)
意味:やせたカエルよ、まけるな一茶はここにいるぞ。
カエル同士の喧嘩を眺めていたのでしょうか。一説によれば、「やせ蛙」とは一茶自身のことで、自分を鼓舞しているとも言われています。
【NO.4】
『 名月を 取ってくれろと 泣く子かな 』
季語:名月(秋)
意味:あの名月を取ってくれと泣く子がいるなあ。
この句は一茶の子供を背負って、あのつきがほしいと泣かれていた時の一句です。一茶は子供に恵まれず、この時の子供も直ぐに亡くなってしまっています。
【NO.5】
『 露の世は 露の世ながら さりながら 』
季語:露(秋)
意味:露の世界は露の世界であるとわかっているが、それにしても不条理だ。
この句は、前述の月をねだっていた一茶の子供が病死したときに詠まれました。人の命の儚さを露に例えている一句です。
さいごに
今回は、江戸の三大俳人として知られている三人の人物と、それぞれの名句をご紹介しました。
三人それぞれの個性や作風の違いなど、感じられたのではないでしょうか。今回ご紹介した以外にも、彼らは多くの名句を残しています。
ぜひ、この機会に彼らの他の句についても調べてみてください。