【菜の花や月は東に日は西に】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

リズムよく口ずさみやすい俳句は、親しみやすくもあり、追求していくと果てしなく奥の深い文学です。

 

そもそも俳句は江戸時代には俳諧と呼ばれており、江戸の俳諧師の中でも「松尾芭蕉」「小林一茶」「与謝蕪村」は芸術性の高い作品を残し、後世にも影響を与えました。

 

今回はそんな中でも与謝蕪村の有名な一句、「菜の花や月は東に日は西に」をご紹介します。

 

 

本記事では、「菜の花や月は東に日は西に」の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「菜の花や月は東に日は西に」の作者や季語・意味

 

菜の花や 月は東に 日は西に

(読み方:なのはなや つきはひがしに ひはにしに)

 

こちらの句の作者は「与謝蕪村」です。

 

与謝蕪村は、江戸時代の中期に活躍した俳人で、画家でもありました。松尾芭蕉や、小林一茶と並んで江戸時代の俳句の巨匠とされます。

 

季語

この句の季語は「菜の花」、季節は「春」です。

 

菜の花は、アブラナ、ナタネともいわれ、春に鮮やかな黄色の花を咲かせます。

 

【CHECK!!】

 

菜の花の種から取れるナタネ油を江戸時代の人々は灯火の燃料としていました。江戸中期ころからは、てんぷら料理も作られるようになり、燃料としてだけでなく食用にも供されるようになり、ナタネ油の需要は増加。また、種から油を搾り取った後の油粕は肥料としても利用でき、花芽は食用にもなったことから、江戸時代には菜の花は広く作られる農作物のひとつとなっていきました。

 

 

また、この句の中には実は秋の季語である「月」も存在しています。

(※月は年中あるものではありますが、特に秋の月が美しいとされ、単に「月」と句中にあるときは、たいていが秋の季語として用いられます)

 

しかし、この句は「菜の花」感動の中心を表す切れ字「や」が用いられているため、「月」の方ではなく「菜の花」の方に感動の力点が置かれているととらえ、「菜の花」が季語となります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「一面、菜の花が咲いているよ。ちょうど月が東から登ってきて、太陽は西に沈んでいくところだ。」

 

となります。

 

「日は西に」=太陽が沈んでいく光景が描かれていることから、夕刻の景ということがわかります。

 

夕刻にのぼる月は、月の運航の法則から言うと満月に近い頃、この句によまれた月は丸い形をしていたということになります。

 

この句が生まれた背景

この句は、安永5年(1776年)に刊行された続明烏という句集に「春興二十六句」という連句の発句として詠まれた句としておさめられています。

 

※連句とは江戸時代にはやっていた、複数の人が集まってテーマに沿って句をつなげていく知的ゲームのようなもの。まず五・七・五の句を立て、それに続いて、七・七の句と五・七・五の句を繰り返しつなげて詠んでいくものです。

※発句というのは、連句の一番最初の五・七・五の句のこと。この連句を作る集まりを句会と言いました。

 

与謝蕪村の高弟、高井几董の「宿の日記」という本によると、この句は安永3年(1774年)323日に詠まれたものだと書かれています。

 

与謝蕪村、弟子の高井几董、親交のあった俳人・三浦樗良の3人が句会をもよおし、この「菜の花や」が発句となった「春興二十六句」という連句を3人で詠みあったと言われています。

 

このころ蕪村は60歳手前、円熟期を迎えていたころの作です。

 

(※「続明烏」は、蕪村の弟子、高井几董(たかい きとう)が編集した、蕪村の一派の俳人たちの句を集めた選集のこと)

 

「菜の花や月は東に日は西に」の表現技法

 

こちらの句で用いられている表現技法は・・・

 

  • 「菜の花や」での切れ字「や」の初切れ
  • 「月は東に」と「日は西に」の対句法
  • 省略法

     

    になります。

     

    切れ字「や」(初切れ)

    俳句では、感動・詠嘆を表す「かな」「や」「けり」などの言葉を切れ字と呼んでいます。この切れ字のあるところで一度句が切れることになります。

     

    この句の「菜の花や」部分に「や」が初句に使われており、初句で切れているため「初句切れ」の句となります。

     

    「や」は初句に使われることが多く、感動の中心を表す言葉ですが、「けり」に比べると軽めの印象を持たせます。また、「や」には俳句らしい調子を生み出す効果もあります。

     

    「日は西に」という言葉から、日暮れ時のことだとわかりますが、あたりが薄暗くなっていく中、鮮やかな黄色い菜の花が広がる様子がほの明るくも見え、作者の感興を誘ったことが分かります。

     

    「月は東に」と「日は西に」の対句法

    対句法とは、二つの対立するもの、または類似するものを構成やリズム対応させながら、対にして並べる表現技法です。

     

    対にするもの同士の相違するところ、または共通するところを比べることでそれぞれの持つ特性をより一層際立たせて印象付け、また調子も整えていく効果があります。

     

    この句では「月は東に」と「日は西に」という言葉が並立され、「東にのぼる月」と「西に沈む日」という壮大なものが対になっています。

     

    この句のスケールは壮大で、作者の視点は宇宙へと伸びやかに広がっていることが分かります。

     

    省略法

    文章の中の言葉を省き、読み手に推測させることで余韻を残す表現技法です。

     

    俳句は短い音数で内容を表現していかなければなりませんので、よく使われる技法です。

     

    この句の「月は東に日は西に」とは、「月は東の空にのぼりつつあり、日は西の空に沈みつつある」ということですが、「のぼる」「沈む」という言葉を省略し、余韻を残しています。

     

    無駄なく簡潔な必要最小限の言葉で二つの天体の動きを示し、この句の世界観を支えています。

     

    「菜の花や月は東に日は西に」の鑑賞文

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    作者は薄暮の菜の花の咲き乱れる野で、東の空にのぼりつつある月と西の空に沈みつつある太陽をながめています。

     

    この句は・・・

     

    • 菜の花の鮮やかな黄色
    • 月がのぼる東の空の紺
    • 日が沈む西の夕焼け空の赤

     

    と色彩感にあふれています。スケールが大きく、また絵画的な句となっています。

     

    一面に黄色に染まる菜の花畑は、里の春らしい眺めだったことでしょう。

     

    また、菜の花は人々の生活に身近なものであり、日々の営みを表すものでもありました。その上に広がるのは広大な宇宙で、そこでは大空に月と太陽の競演というダイナミックな天体ショーが繰り広げられていたわけです。

     

    目の前の日常の光景からふと目をあげて空を仰ぐと広がるのは深遠な宇宙。果てしなく雄大な句です。

     

    「菜の花や月は東に日は西に」に詠まれた場所

    神戸港から望む摩耶山

    (神戸港から望む摩耶山 出典:Wikipedia

     

    この句はどこの光景かというと、与謝蕪村はこの句を兵庫六甲の摩耶山を訪れた時に見た光景として詠んでいると言われています。

     

    摩耶山とは、現在の神戸市灘区にある山で、山頂には忉利天上寺(とうりてんじょうじ)、通称天上寺という真言宗の古刹があります。この寺は、平安時代の僧侶空海がお釈迦様の母、摩耶夫人の像をお祀りしたという由緒のある寺です。

     

    兵庫には弟子である吉分大魯(よしわけ たいろ)が住んでいたことから、与謝蕪村もこの地方にゆかりがあったと考えられます。

     

    蕪村には、「菜の花や摩耶を下れば日の暮るる(菜の花が咲き乱れていることだ。摩耶山を下りてくると日も暮れてきた。)という句もあります。夕ぐれの菜の花の美しさを詠んでいる点で、「月は東に日は西に」の句とも通ずる趣があります。

     

    摩耶山には蕪村はたびたび上っていたようで、後世になって、蕪村の足跡をたどって明治の俳人正岡子規が摩耶山を訪れたりもしています。

     

    作者「与謝蕪村」の生涯を簡単にご紹介!

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    (与謝蕪村 出典:Wikipedia

     

    与謝蕪村は、1716年から1784年を生きた俳人であり、画家でもあります。本名を谷口信章といいます。

     

    蕪村は雅号で、与謝は母親の出身地丹後与謝の地名からとったともいわれますが、本当のところはわかっていません。

     

    摂津国、現在の大阪府の生まれですが、20歳くらいのころ江戸に下り、俳諧を学ぶようになります。

     

    江戸時代前期に活躍した松尾芭蕉にあこがれ、芭蕉の足跡をたどる旅をしたりもしました。

     

    与謝蕪村が俳諧を志したころ、世には低俗な俳諧があふれており、蕪村はそれを嘆いて芭蕉のような芸術性のある俳句を目指しました。

     

    写実的で絵画のような俳句を得意とし、また俳句を書き添えた絵、俳画を始めたのも与謝蕪村です。

     

    明治時代になって、俳諧を近代詩歌の俳句にまで高めていった正岡子規が与謝蕪村を高く評価したことから注目されるようになった俳人でもあります。

     

    与謝蕪村のそのほかの俳句

    与謝蕪村の生誕地・句碑 出典:Wikipedia