【大根引き大根で道を教えけり】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音に、季節の語や心情を詠みこむ「俳句」。

 

国語の授業だけでなく趣味としても親しまれ、作品を応募するコンクールも増えています。

 

今回は、有名俳句の一つ大根引き大根で道を教えけりという句をご紹介します。

 

 

本記事では、大根引き大根で道を教えけりの季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「大根引き大根で道を教えけり」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

大根引き 大根で道を 教えけり

(読み方:だいこひき だいこでみちを おしえけり

 

この句の作者は、「小林一茶」です。

 

江戸時代を代表する俳諧師の一人です。一茶はユーモアのある句を詠み、現代でも人気があります。

 

 

季語

この句の季語は「大根引き」、季節は「冬」です。

 

「だいこん」の読み方が一般的ですが、「だいこ」「おおね」とも言います。

 

「大根」は、アブラナ科の野菜で、古くから日本でも好まれており、たくさん栽培されてきました。品種が多く、おでんの具材としても冬の食卓にかかせない存在です。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「大根を引き抜いている農家の方へ道を尋ねると、抜いた大根を持ったまま「あっち」と大根で方角を指し示して教えてくれたよ」

 

という意味です。

 

「大根引き」というのは、大根の収穫、もしくは大根を収穫している人という意味です。引き抜いた大根を持ったまま、大根で方角を指し示したとされています。

 

この句が詠まれた背景

この句は、「七番日記」に収められており、文化11年(1814年)に詠まれました。一茶が50歳前後の作品とされています。

 

「七番日記」は、一茶の48歳から56歳までの9年間にわたる句日記(自筆稿本)です。一茶の句日記としては、最大のもので代表作も数多く含まれています。

 

一茶は、俳諧行脚をして生活を立てていましたが、収入は不安定でした。この「七番日記」から「おらが春」を執筆していたころが、一茶の最も充実した時期とされ、俳諧者として名が知られるようになり、収入も安定していきました。作品も、一茶独自の境地で「一茶調」と呼ばれる多彩な作品が多く生み出されました。

 

この句も、ユーモアあふれる一茶調の句であり、行脚の途中での出会いを詠んだものと考えられます。

 

「大根引き大根で道を教えけり」の表現技法

「教えけり」の「けり」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目(文としての意味の切れ目)や、作者の感動の中心を強調するときに使います。

 

「けり」は詠嘆の表現に使われる言葉です。

 

句切れなし

意味やリズムの切れ目を句切れといいます。

 

この句では、三句(五・七・五の最後の五文字)の最後に切れ字が含まれるため、句切れなしとなります。

 

「大根引き大根で道を教えけり」の鑑賞文

 

一茶は江戸に住んでいましたが、俳諧行脚をして各地を巡り、句を詠んでいます。

 

この句も、道中で出会った大根の収穫をしているお百姓さんとのやり取りの情景を詠んでいます。

 

せっせと働くお百姓さんは、とても忙しかったのでしょうか。大根を持ったまま、道を教えてくれています。そんな1コマを切り取った、くすっと笑ってしまう一茶の様子や一生懸命なお百姓さんの様子が目に浮かぶ句です。

 

一茶の句は、時に子供のような童心あふれるユーモアや、ひがみ、自嘲、弱者への同情などの感情をこめて庶民生活をわかりやすく詠んでいます。

 

この句が「川柳」にもなっている?

 

川柳とは、創始者「柄井川柳」が始めた五・七・五の形式の表現です。川柳は俳句とは違い、季語や切れ字などの約束事がなく、口語を用いて自由に表現します。時事風刺や笑いを中心に、作品を作ります。

 

明和二年(1765)に発行された「俳風柳多留」という川柳集に「ひんぬいた大根で道を教えられ」という川柳が載っています。

 

一茶の俳句が、ここから着想を得たものなのか、または川柳を俳句にしたのか、たまたま一致したのかはわかっていません。

 

ただ、この俳句と川柳が表現する違いは、一茶の俳句が全体の情景を詠んでいるのに対して、川柳は「大根で道を教えるため方角をさしたおもしろさ」を表現しているところです。         

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶は1763年に信濃国(現在の長野県)に生まれました。本名を、小林弥太郎といいます。

 

3歳の頃に生母を亡くし、5年後に父は再婚しますが継母になじめず、15歳で江戸へと奉公に出されます。奉公先で俳句に出会い、俳句を学んだとされていますが、記録があまり残っていません。

 

29歳で14年ぶりに故郷へと帰り、父が他界します。父の遺産相続問題で12年もの間、継母や弟と争うこととなりました。この争いは、一茶の作風にも影響を与えています。

 

その後、信濃へ定住し遺産問題も和解したため、52歳で結婚します。その後、2度結婚して5人の子供を授かりますが、最後に生まれた娘以外、みな幼くして亡くなっています。

 

晩年は家庭の不遇や火事など、苦労が絶えませんでした。そして1828年、65歳にて亡くなりました。

 

    小林一茶のそのほかの俳句

    一茶家の土蔵 出典:Wikipedia