【こころ疲れて山が海が美しすぎる】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は、五七五のリズムで心情や情景を詠むことと認識されています。

 

しかし、俳句が先人達の暮らしに浸透した結果、定型や季語のルールに縛られずに、自由に句作する「自由律俳句」が誕生しました。

 

今回は自由律俳句を代表する俳人・種田山頭火の作品「こころ疲れて山が海が美しすぎる」をご紹介します。

 

 

本記事では、「こころ疲れて山が海が美しすぎる」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「こころ疲れて山が海が美しすぎる」の俳句の季語・意味・詠まれた背景

 

こころ疲れて山が海が美しすぎ

(読み方 : こころつかれて やまがうみがうつくしすぎる)

 

この俳句の作者は「種田山頭火(たねだ さんとうか)」です。

 

山頭火は明治から昭和にかけて数多くの作品を句作し、自由律俳句の先駆者としてその名を後世に残しました。

 

この句は、山頭火が行脚僧として諸国を旅した時に詠まれた作品です。生涯を通して波瀾万丈の人生を歩んでいた山頭火は、何気ない山や海といった風景さえも、美しく感じられるほどに、心が疲れ切っていたと解釈できます。

 

 

季語

こちらの句に季語はありません。

 

山頭火が得意とする自由律俳句には「無季自由律俳句」と呼ばれるものがあり、「あえて季節に関する語を入れない」という特徴があります。

 

今回の「こころ疲れて山が海が美しすぎる」という句は、「無季自由律俳句」に分類されます。

 

季節に関する情報をあえて入れないことで、詠みたい事柄をダイレクトに相手に伝える効果があります。

 

意味

 

こちらの句を現代語訳すると…

 

「心が疲れてしまって山や海さえも感動するぐらいに美しい。」

 

という意味になります。

 

山頭火は何気ない山や海さえも、美しすぎると感動できるくらいに心が疲弊していることを詠んでいます。

 

また、幼少期からさまざまな困難に遭遇しているのに、中年期を迎えた今もなお幸せが訪れない自分の境遇に対して心が疲れ切っているとも汲み取ることができます。

 

この句が詠まれた時代背景

 

この句は、山頭火が行脚僧になって諸国を旅した途中で詠まれた作品ですが、が詠まれた年月日については不明です。

 

山頭火は幼少期に母が自死してからは壮絶な人生を過ごし、やることなすことすべてがうまくいきませんでした。進学も仕事も中途半端なままで終わり、さらに追い打ちをかけるように、家族とも離別してしまいます。

 

自暴自棄になった山頭火は自殺しますが、未遂で終わり、僧侶に拾われます。その僧侶の元で出家したいと考えますが、年齢が40歳を超えていたため弟子入りを断られてしまい、行脚僧の道を選択しました。

 

そのようなさまざまな困難に遭遇して、心身ともに疲弊している山頭火だからこそ、この句に詠まれたように山や海が神聖で美しいものに感じられたのです。

 

「こころ疲れて山が海が美しすぎる」の表現技法

自由律俳句

この句は十三文字で作られており、俳句の基本的な五七五(十七文字)の定型と離れた自由律俳句です。

 

俳句には、伝統的な五七五の定型を守り花鳥諷詠の美学をもつ「定型俳句」と、字数・季題にとらわれずにことばの調べによって作られる「自由律俳句」があります。

 

自由律俳句は、無駄を全て除いた「一行詩」として、世界で最も短い詩形であるとされています。

 

自由律俳句の特徴には、切れ字や、文語、季語にこだわらず口語で作られることが多いという点があげられます。自由律俳句は荻原井泉水が提唱したもので、弟子である種田山頭火はその代表といえる俳人なのです。

 

自由律俳句は伝統的な俳句のルールに縛られずに句作できるため、作者の心情が読者に伝わりやすくなります。

 

「こころ疲れて山が海が美しすぎる」の鑑賞文

 

この句を解釈するポイントは、「心疲れて」です。

 

山頭火は幼い頃に、母が自死してから、出口の見えない真っ暗な人生を歩いてきました。進学も仕事も失敗に終わり、さらに結婚生活までも「離婚」という形で終わってしまいます。

 

そして、自殺を試みますが未遂に終わり、最終的には行脚僧として諸国を放浪する旅を続けるしか、残された道はありませんでした。

 

幼少期から中年期を迎えて以降も、人並みの幸せを掴むことができなかった「山頭火の心」は疲弊しきっていたことでしょう。また、長旅で肉体も精神も限界状態であったのかもしれません。

 

そのような心も体も追い詰められて、疲労困憊している山頭火には、山や海の自然美が純粋に美しいと感じられたのです。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火は1882年(明治15年)に、現在の山口県別府市に誕生しました。本名は種田正一(たねだしょういち)といいます。

 

山頭火は大地主の家に生まれて、当時としては裕福な家庭で育ちましたが、10歳の時に母が自死してからは人生が大きく変わってしまいました。現在の早稲田大学に進学するほど、頭脳明晰な人物でしたが、持病のために志なかばで退学せざるを得ませんでした。

 

以降は、父の酒屋を一緒に切り盛りしていきますが、やがて家業までも倒産。さらには、父や兄弟、さらに妻子とも離別して、孤独な人生を歩みます。40歳の時には自殺を図りますが、結局は未遂に終わり、命を助けてくれた寺院で過ごします。

 

自らも僧侶として仏の世界に進む道を選択しますが、僧として修行するには歳が行き過ぎており、修行僧になる夢は叶いませんでした。最終的に、山頭火は拓鉢を持って諸国を巡る行脚僧の道を進みますが、その生活は放浪生活となんら変わりませんでした。

 

山頭火は諸国を旅するなかで、自由律俳句のスタイルで数多くの作品を残しました。それらの作品の多くが、己の人生や旅先で目にした風景などをテーマにしています。

 

たしかに、山頭火の人生は波乱に満ちていましたが、俳人としては「自由律俳句」を代表する読み手としてその名を残しました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)