【七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

日本には、女流俳人によって詠まれた作品も数多く残されています。

 

それらの中には、亡くなった人への想いを詠んだ句も少なくありません。

 

今回ご紹介する「七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ」という句もその中の1つです。

 

 

本記事では、「七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ」の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ」の季語や意味&解釈

 

七夕や 髪ぬれしまま 人に逢ふ

(読み方 : たなばたや かみぬれしまま ひとにあふ)

 

こちらの句の作者は、「橋本多佳子(はしもと たかこ)」です。橋本多佳子は、昭和20年に夫豊次郎を亡くしています。

 

こちらの作品は、夫逝去後の昭和21年に詠まれた作品です。

 

七夕という特別な日だからこそ「もう1度あなたに逢いたい」という思いと、「あなたが亡くなってからやっと立ち直って、濡れ髪のまま恋しい人に逢えるほど元気にしていますよ」をかけて作られた俳句です。

 

季語

こちらの句の季語は「七夕」で、季節は「秋」を表します。

 

「七夕」は7月7月に行われる行事だけに「夏」という意識があるかもしれません。

 

しかし、俳句の世界では旧暦で季節を表すため、太陽暦で時を表す現代とは季節にずれが生じるためです。

 

意味&解釈

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「恋する男女が運命に引き裂かれ、年に一度しか逢えない七夕の夜である。髪が濡れたままであるが、あの人に会う。」

 

となります。

 

こちらの句のキーポイントは「七夕」と「人」です。

 

七夕は1年に1度だけ、彦星様と織姫様が逢える特別な1日です。

 

つまり、そんな特別な日に逢いたいと思うほど恋しい人となりますし、普段は逢えないという状態であると分かります。

 

「人」については、思い人。つまり異性を指しています。

 

ここまで読むと、恋焦がれている男性に逢いに行くのではとイメージされる方も多いかもしれませんが、じつはこの相手とは「亡き夫」を指します。

 

多佳子の夫である豊次郎は昭和20年に亡くなっています。そのような背景から「七夕の日に今は亡き夫に逢いたい」という気持ちが読まされた作品であると伺えるはずです。

 

さらにより深く解釈すると、「七夕という恋人達が逢瀬を楽しむ特別な日に髪を濡らしたままあなたに逢えるほど、あなたの死後立ち直って元気に過ごしていますよ」という多佳子の強い想いも伝わって来ます。

 

「七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ」の表現技法

切れ字「や」(初句切れ)

切れ字とは、句の切れ目に用いられ、強調や余韻を表す効果があります。特に「や・かな・けり」の三語は、詠嘆の意味が強く込められており、切れ字の代表ともいえます。

 

この句は「七夕や」の「や」が切れ字に当たり、七夕の夜を読者が頭の中に描きやすくなっています。

 

また、この句は上五「七夕や」に切れ字「や」がついていることから、「初句切れ」の句となります。「七夕や」の部分が句切れとなるため、一呼吸おき読みやすい作品に仕上がっています。

 

「七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ」の鑑賞文

 

【七夕や髪ぬれしまま人に逢ふ】は、「もう亡くなってしまい逢えないと心の中では分かっているのに、七夕の日だけでもあなたに逢いたい。髪を洗った後のそのままの姿でもいいから、すぐにでも逢いたいわ。」という未亡人となった多佳子の心に込めた思いが伝わってくる作品です。

 

それほど、豊次郎との生活が楽しく、満ち足りていたことが分かります。

 

その一方で・・・「あなたは自分が亡くなって私のことをあの世で心配しているかもしれませんが、大丈夫です。七夕という恋人達の逢瀬の日に、髪を濡らしたままのそんな状態でもあなたに逢いに行けるほど、今は以前のように元気に過ごしていますよ。」とも読み取れます。

 

夫への愛情、そして悲哀感とたくましさが織り混ざった、多佳子の複雑な心情を感じます。

 

七夕の日にもを思い出してしまうほど、夫のことを愛していたことが分かり、多佳子の温かい人柄も伺える作品です。

 

作者「橋本多佳子」の生涯を簡単にご紹介!

 

橋本多佳子は、1899年(明治32年)に現在の東京都文京区本郷に生まれました。

 

祖父は琴の山田家家元、父は官僚という家庭でした。現在の女子美術大学日本画科へ進学しますが、病弱のため中退しています。

 

1917年に建築の夫橋本豊次郎と結婚し、北九州小倉市の櫓山荘(ろざんそう)にて生活をしていました。その時に訪れた高浜虚子の影響を受け俳句をはじめ、杉田久女から指導を受けたと言われています。

 

1927年には『ホトトギス』雑詠に初入選。その後、山口誓子に師事して水原秋桜子主宰の『馬酔木』の同人となり活躍。1941年に句集『海燕』を刊行し、戦後は女流俳人として脚光を浴びます。

 

1964年に享年64歳で肝臓、胆嚢がんのため亡くなりました。

 

 

橋本多佳子のそのほかの俳句