【あはれ子の夜寒の床の引けば寄る】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

俳句は、五七五という短い文の中で、四季の美しさや心情を表現することができる日本の文学です。

 

自分で詠う楽しみはもちろん、有名な句を鑑賞することで自分の俳句の感性を磨くことができます。よい作品に出会えた時の感動は、自分を豊かにしてくれます。

 

今回は、中村汀女の有名な句の一つ「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

あはれ子の 夜寒の床の 引けば寄る

(読み方:あはれこの よさむのとこの ひけばよる)

 

この句の作者は、「中村汀女(なかむら ていじょ)」です。

 

中村汀女は明治時代に生まれ、昭和時代に活躍した女流俳人の第一人者です。

 

日々の生活や子どもについて詠んだ、優しく女性らしい句を多く残しています。この句にも、子どもへの深い愛情が込められています。

 

 

季語

この句の季語は「夜寒(よさむ)」、季節は「秋」です。

 

「夜寒」とは、秋の終わり頃、夜になると寒さを感じることをいいます。

 

この時期、日中はまだ暖かく寒さを感じませんが、夜になるにつれ気温が急に下がり寒さを覚えることが多くなります。

 

「夜寒」は手足や首筋などに寒さを感じ、少しずつ冬が迫ってくる様子が伝わる季語として使われます。俳句世界独特の温度感覚の表現です。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「秋の終わり頃、夜寒の部屋で隣りに寝ている子どもの布団を見ると、寒そうにしている。思わずその布団を自分の方に引くと、すっと寄ってくることだ」

 

という意味です。

 

「あはれ」は、形容動詞「あはれなり」のことです。

 

しみじみとした趣がある・かわいい、いとおしい・気の毒だ、かわいそうなことだ・悲しい、わびしい・情け深いなどの意味があります。

 

この句では、「あはれ」は「かわいい」「愛おしい」の意味で使われており、「あはれ子」で、「愛おしい我が子」の意味です。

 

句の冒頭が「あはれ子の」となっており、汀女の我が子への愛情がより読み手に訴えかけてくるものとなっています。

 

この句が詠まれた背景

この句は昭和11年、汀女が36歳の頃に東北地方・仙台で詠んだものです。

 

汀女は大蔵省税関であった夫の転勤のため、子ども連れで大阪、横浜、東京、仙台と各地を転々としていました。

 

九州熊本出身の汀女にとって、まだ慣れない東北地方の寒さは、ことさらに寒く感じるものだったのでしょう。

 

汀女には、3人の子どもがおり、この句では末っ子の息子のことを詠っています。母親の子どもに対する愛情が溢れる句です。

 

「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」の表現技法

句切れなし

この句では、切れ字が使われていないことから、句切れなしの句となっています。

 

句切れがないことで、読み手は句の終わりまで流れるように読むことになり、この句の情景を現実的に思い描かされます。

 

格助詞「の」の多用

この句では、格助詞「の」を3回使っています。

 

「の」を繰り返すことにより、リズムある句になっています。

 

「あはれ子の夜寒の床の引けば寄る」の鑑賞文

 

東北仙台の秋の夜は、汀女がかつて住んでいた熊本とは違い、厳しい寒さを感じつつあります。

 

夜寒が身に染みる中で、子どもたちと同じ部屋で眠りについていた汀女。

 

ふと気づくと、隣りに眠る末の息子の布団が少し離れた位置にあるのに気づき、「寒いのではないか」と気になったのです。

 

汀女は、思わず子どもを自分のもとに近づけるために布団ごと引き寄せました。汀女が思っていたよりも布団は軽く、すっと引き寄せることができ、汀女は子どもの軽さにはっとします。

 

我が子がまだこんなに軽いのかと改めて感じ、汀女の胸に子どもへの愛しさがこみあげてきたのでしょう。

 

汀女はまだ小さく軽い我が子に対して「あはれ」と感じており、読み手にも母親の子どもに対する優しさや愛情が伝わる句となっています。

 

作者「中村汀女」の生涯を簡単にご紹介!

(1948年の中村汀女 出典:Wikipedia

 

中村汀女は、1900年(明治33年)現在の熊本県熊本市江津で、中村家の一人娘として生まれました。

 

本名「中村破魔子(はまこ)」は父親が名づけました。父親は地主で村長も務めており、地元で人望を集めた人物でした。

 

汀女は熊本県立高等女学校を卒業後、「ホトトギス」に投句を始めます。杉田久女に憧れ、手紙を出したことから久女との交流が長く続きました。

 

1920年(大正9年)、熊本市出身で大蔵官僚の中村重喜と結婚し3人の子どもをもうけます。長女は、小川濤美子(なみこ)として、後に汀女と同じく俳人として活躍しました。夫の転勤に伴い東京、横浜、仙台、大阪など各地を転々とする中、子育てもあり俳句を中断していました。

 

1932年(昭和7年)から俳句活動を再開。高浜虚子に師事し、俳句雑誌『ホトトギス』の同人として、注目を集めます。

 

当時女流俳人として活躍した、星野立子(ほしの たつこ)・橋本多佳子(はしもと たかこ) ・三橋鷹女(みはし たかじょ)とともに、名前のイニシャルをとって4Tと呼ばれました。

 

汀女の俳句は、当時「台所俳句」などと呼ばれ、社会性や文学意識が欠如していると指摘されることが多くありました。しかし、汀女は自身への批判を気にせず、自分の感覚を磨き創作を続け、多くの作品を残しました。

 

そして1988年(昭和63年)に88歳、心不全で死去。

 

汀女の句は、家庭生活に題材を求め、細やかな女性の気持ちを込めたものが多くあります。日常生活を基本とした、のびのびとした作風とそのさわやかさが魅力的です。

 

汀女の優しい人柄が伝わる句は、現在でも多くの読み手に感動を与えています。

 

 

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