【むさし野や水溜りの富士の山】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳人達がはるか昔に詠んだ俳句のなかには、富士山をテーマにした作品も数多く残されています。

 

同じ富士山を題材にしていても、読み手によって句に込める心情や情景に違いが見られるところが、俳句の面白さです。

 

今回は日本を代表する俳人小林一茶が詠んだ句「むさし野や水溜りの富士の山をご紹介します。

 

 

本記事では、「むさし野や水溜りの富士の山」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「むさし野や水溜りの富士の山」の俳句の季語・意味・詠まれた背景

 

むさし野や 水溜りの 富士の山

(読み方 : むさしのや みずたまりの ふじのやま)

 

この俳句の作者は「小林一茶(こばやし いっさ)」です。

 

小林一茶とは江戸時代中期から後期を代表する俳人で、諸国を旅して後世にまで残る数々の名句を残しています。松尾芭蕉、与謝蕪村と名を連ねる江戸時代を代表する著名な俳人です。

 

 

季語

俳句は季節を表す「季語」を含めて作品を読む決まりになっていますが、こちらの句には季語に該当する語句がありません。

 

俳句の世界では、季語を含むものを「有季俳句(ゆうきはいく)」と呼ぶのに対して、この句のように季節が感じられる言葉が存在しないものを「無季俳句(むきはいく)」と区分しています。

 

俳人や結社のなかには、無季俳句は俳句ではないとする見解もありますが、年代が進み近世に入って自由律俳句が詠まれるようになると、多くの読み手の間で季語のない作品が口ずさまれるようになりました。

 

季語を入れると表現がくどくどしくなり、野暮ったい印象になってしまう場合もあります。しかし、あえて季語を入れないことで、作者のストレートな思いを俳句に表現することができるため、洗練された作品に仕上がります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「水溜まりができているむさし野の大地から富士山が見えるよ。」

 

という意味です。

 

水溜まりと富士山という単語から、水溜まりに映る逆さ富士もイメージできます。しかし、江戸時代のむさし野は現代の東京、埼玉にあたりますから、距離的な問題からして逆さ富士が水溜まりに映ることはありません。

 

そのように考察すると、小林一茶がむさし野の地から雨上がり後の富士山の風景を読んだ句であると判断できます。

 

むさし野の大地のあちらこちらに水溜まりができるくらいに、本格的な雨が降ったが、その雨も止んで遠くに富士山が見える様子を読んだ一句です。

 

雨が上がりようやくお天気が回復して、むさし野から雄大な富士山の姿を眺めることができたと、感動している小林一茶の姿が思い浮かびます。

 

この句が詠まれた背景

「むさし野の水溜りの富士の山」は「文政句帖(ぶんせいくちょう)」に収録されていますが、いつ詠まれた作品であるか明確な年月日に関しては不明です。

 

小林一茶は家族との縁が非常に薄く、その生涯を終えるまで厳しい生涯を歩んできたと言われています。

 

25歳で俳句の師匠に弟子入りし、その後は近畿や九州などの諸国を訪ねて俳句修行の旅に出ていました。その後、再び信濃に帰省しますが、50歳を迎えるまでは江戸で暮らしたと言われています。

 

こちらの句は、おそらくは「俳句修行の途中で詠まれた作品」ではと推察することができます。

 

さまざまな苦難を生き抜いてきた小林一茶は、むさし野から遠くに見える雄大な富士山の姿を見て、クヨクヨしていてもはじまらない前を向いて歩む道しか残されていないと勇気をもらったのかもしれません。

 

富士山を日本の象徴とする私たちにとっても、親しみやすい作品と言えるでしょう。

 

「むさし野や水溜りの富士の山」の表現技法

初句切れ

俳句の句切れは、意味やリズムの切れ目のことをいいます。

 

この句では、「むさし野や」と初句に切れ字「や」が使われており、「初句切れ」の句となっています。

 

切れ字「や」を用いることで句に詠嘆の意味を持たせ、さらに読み手に呼びかける効果を生んでいます。

 

体言止め

体言止めとは俳句の文末を名詞で終えて、余韻を残す技法のことです。

 

この句の場合には「富士の山」の部分が体言止めになっており、「富士の山よ」と余韻を残しています。

 

字足らず

五音や七音になる部分の音が定型より少ないことを、俳句の世界では「字足らず」と呼んでいます。

 

この句の場合には「水溜まりの」の部分が6音ですので、定型の7音よりも少ないため「字足らず」に当てはまります。

 

字足らずの部分は少しだけ間をあけて、下句を読むと、心情や風景を思い浮かべながら俳句に親しめるでしょう。

 

「むさし野や水溜りの富士の山」の鑑賞文

 

こちらの句は、むさし野という地名と富士山を対比する形で詠まれていることがポイントです。

 

水溜まりがあちらこちらにでき、草木も雨に濡れているなかで、雨があがりお天気が回復して遠くに見える富士山を眺める小林一茶の姿が思い浮かびます。

 

梅雨や秋雨の時期で、長く雨が降り続いた後なのでしょうか、それとも一時的に激しい雷雨が訪れた後の情景を読んだ句なのであるかは、作者にしか分かりません。

 

しかし、水溜まりができるくらいにしっかりとした雨が降ったと読み取れます。

 

水溜まりや雨に濡れた草木が、太陽の光を受けて輝くなかに富士山が見える様子は風光明媚な眺めであり、自然が織りなす情景美であると感じ取れる作品です。

 

何気ない風景を愛する小林一茶の素朴な人柄も感じられます。

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶こと、本名小林弥太郎は1763年(宝暦13年)に、信濃国(現在の長野県)の農家に生まれました。

 

小林一茶は幼少期から家庭との縁が薄く、母親や祖母の死後に、犬猿の仲であった義母と距離をおくために、わずか15歳で江戸に奉公に出されてしまいました。

 

15歳から25歳の期間については、詳細な記録が残されていないため、小林一茶がどのような人生を送っていたかは定かではありませんが、苦労に満ちた毎日であったと言われています。

 

25歳の時に葛飾派の俳人として頭角を現わし、父を亡くす39歳まで諸国を巡業する俳諧の修行に旅立ち、俳諧師としての地位を確立したそうです。

 

その後一旦、信濃に戻り継母との間で遺産相続に巻き込まれますが、無事に財産を得て再び江戸に戻り、52歳にして家庭を築き4人の子供に恵まれました。

 

しかし、幸せはそう長くはなく、妻子ともに病気で失い、その後に再婚するものの長くは続かずに、さらに火事で家を失うなど苦難に満ちた人生でした。

 

一方の俳句のほうも生計を立てられるくらいの地位を築くものの、一茶調を引き継ぐものはおらず、小林一茶の死後に正岡子規らによって、脚光を浴びるようになりました。

 

小林一茶は生涯に「生」を題材にして、2万以上もの俳句を詠んでおり、今なお私たちによってそれらの句が口ずさまれています。

 

小林一茶のそのほかの俳句

一茶家の土蔵 出典:Wikipedia