【また見ることもない山が遠ざかる】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句とは17音の限られた字数のなかで心情や風景を詠むものであるため、作者自身がその時に抱いた率直な思いを感じ取れます。

 

読み手の立場になって風景や心境を頭に思い浮かべて句を詠むと、作品に対して親しみが生まれるかもしれません。

 

今回は種田山頭火が詠んだ句「また見ることもない山が遠ざかる」をご紹介します。

 

 

本記事では、「また見ることもない山が遠ざかる」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「また見ることもない山が遠ざかる」の俳句の季語・意味・詠まれた背景

 

また見ることもない山が遠ざかる

(読み方: またみることもない やまが とおざかる)

 

この俳句の作者は「種田山頭火(たねだ さんとうか)」です。

 

種田山頭火は大正から昭和初期にかけて、国内の各地を放蕩しながら五七五の定型にこだわらない自由律俳句を詠んだことで有名な俳人です。

 

 

季語

こちらの句に季語はありません。

 

山頭火が得意とする自由律俳句には「無季自由律俳句」と呼ばれるものがあり、「あえて季節に関する語を入れない」という特徴があります。

 

今回の「また見ることもない山が遠ざかる」という句は、「無季自由律俳句」に分類されます。季節に関する情報をあえて入れないことで、詠みたい事柄をダイレクトに相手に伝える効果があります。

 

意味

 

こちらの句を現代語訳すると…

 

「二度と見ることがない山がどんどん遠ざかっていくよ。」

 

という意味です。

 

そのままストレートに現代語に訳せますので、俳句の技法や読解の仕方について詳しくない方でもすんなりと意味を理解できる作品と言えます。

 

種田山頭火自身の人生のなかで、二度と目にすることがないであろう山が遠ざかっていく寂しさを詠んだ俳句です。また、親しい人との永遠の別れを山との別離に例えて表現した作品ですので、読み手の孤独な思いも伝わってきます。

 

この句が詠まれた背景

この句は句集「草木塔」に収録されていますが、いつ詠まれた作品であるか明確な年月日に関しては不明です。

 

一方で句集「草木塔」に記されている作品は、種田山頭火が出家をして行脚層になり、各地を転々と旅している時期でした。

 

種田山頭火は幼少期に、母親を自殺で亡くした悲しみから抜け切れず、暗い人生を歩んでいたといわれています。進学や仕事もうまくはいかず、結婚して妻子を得ても酒に溺れ家族を失うなど、どん底の人生を歩んでいました。

 

人生に行き詰まって自殺を試みますが未遂に終わり、出家の道を選択します。しかし、すでに40歳を超えていたため修行僧としては寺に受け入れてもらえず、拓鉢を持って地方を放蕩する人生しか残されていなかったのです。

 

その行脚層として訪ねた先で詠んだ句のひとつが「また見ることもない山が遠ざかる」です。

 

「また見ることもない山が遠ざかる」の表現技法

自由律俳句

こちらの作品は17音で詠まれてはいますが、五七五の定型とは明らかにかけ離れた独特のリズムが特徴的です。

 

このような定型にとらわれない俳句は「自由律俳句」と呼ばれており、読み手の心の内側がストレートに表現されています。

 

自由律俳句は切れ字、擬人法といった俳句特有の技法を使用しないことが特徴的で、話し言葉に近い口語体を使った作品が多く見受けられます。口に出たありのままに近い言葉を並べることで、種田山頭火の寂しさや悲壮感が巧みに表現されています。

 

口語体

一般的に俳句では、書き言葉である文語体を使用しますが、前述したようにこちらの作品には「口語体(こうごたい)」が使われています。

 

文語体は平安時代に起因する文体ですので、古典で見られるような表現が使われる場合もあります。これに対して、口語体とは話し言葉がベースになるため、普段私たちが話をする口調で言葉を文字にします。

 

そのため、読み手の素直な心情が詠まれており、親しみやすい作品になります。

 

「また見ることもない山が遠ざかる」の鑑賞文

 

こちらの句は、再び見ることがない山を題材にして詠まれているところがポイントです。

 

山を背にして行脚層として、行き先のない旅を続ける種田山頭火の姿が脳裏に思い浮かびます。

 

新緑の美しい季節だったのか、それとも紅葉がきれいな時期だったのか、どちらにしろ作者は、生きている限りは二度とこの山の風景を眺めることはありません。

 

そして、旅先で知り合った親しい友達・慣れ親しんだ土地とも別れを告げなくてはならないのです。次の目的地に向かい進んでいくほど、二度と会うことのない知人達や、再び訪れる機会はないであろう土地との距離が開いていく寂しさ、孤独さがヒシヒシと伝わってきます。

 

そして、行脚僧としてしか生きる術のない我が身の理不尽さ、寂寥感も感じ取ることができる一句です。

 

作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!

(種田山頭火像 出典:Wikipedia

 

種田山頭火こと本名種田正一(たねだ しょういち)は、1882年(明治15年)に山口県佐波郡(現在の別府市)に生まれました。

 

10歳の時に母が自殺をしてから人生の歯車が大きく狂ってしまい、生涯を終えるまでその人生は苦難に満ちており、不幸であったと言われています。

 

現在の高等学校卒業後は上京して早稲田大学に進学するものの、神経衰弱により退学し、故郷である山口に帰省しました。その後、家業の酒屋を手伝いますが、経営が思わしくなく事業に失敗し、父、弟、さらに妻子まで失ってしまいます。

 

ようやく就いた図書館の仕事も地震で失い、酒に溺れて自殺を図りますが、命をとりとめて42歳の時に出家し、行脚層として全国を巡る旅に出ました。

 

その旅のなかで見た風景や感じた心情を独特のリズムで俳句に詠み、自由律俳句の俳人として後世までその名を残しました。

 

種田山頭火のそのほかの俳句

種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)