【おそるべき君等の乳房夏来る】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の感情や見た風景を綴り詠む「俳句」。

 

季語を使って表現される俳句は、たった十七文字ですが、作者の思いやその時代の雰囲気を感じることができます。

 

今回は、西東三鬼の有名な句の一つおそるべき君等の乳房夏来るをご紹介します。

 

 

今回の記事では、「おそるべき君等の乳房夏来る」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきます。ぜひ参考にしてみてください。

 

「おそるべき君等の乳房夏来る」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

おそるべき 君等の乳房 夏来る

(読み方:おそるべき きみらのちぶさ なつきたる)

 

この句の作者は、「西東三鬼(さいとうさんき)」です。

 

昭和初期に活躍した俳人で、本業は歯科医師です。患者さんに勧められ、俳句を30代から趣味として詠み始めました。

 

季語

この句の季語は「夏来る(なつきたる)」、季節は「夏」です。

 

「夏来る」は、二十四節気の1つである立夏の頃を指す季語です。立夏は陽暦の56日頃で、暦の上また俳句ではこの日からが夏になります。他にも、立夏の頃を指す季語は、「夏立つ」や「夏に入る」などがあります。

 

「夏来る」という表現は、新しく訪れる季節に期待も込められているようにも思われ、この表現があることでこの句にある夏がとても眩しく感じられます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「おそろしいほど存在感のある女性らの乳房だ。夏が来るぞ。」

 

という意味です。

 

「おそるべき」という言葉は、「恐るべき」とも「畏るべき」とも取れます。

 

「恐るべき」だと、女性の乳房に圧倒されているように感じられます。また、「畏るべき」だと、女性の乳房を母としての象徴として表現しているようにも感じられます。

 

この句に出会う人が、いろいろな意味や解釈が取れるように、作者はあえて平仮名で表現したのではないでしょうか。

 

「君等」と作者が呼びかけている女性達は夏が近づき、薄着になっています。薄着になった女性の豊かな乳房に、男性の作者が感じた女性のたくましさも表現されているように思われます。

 

この句が詠まれた背景

 

この句は、1948年に出版された句集『夜の桃』に収められています。明和21年(1946年)ごろ、三鬼が46歳の時に詠まれた句だと考えられています。

 

この句が詠まれたのは、敗戦直後であると考えられています。敗戦直後は女性の装いが、それまでのモンペなどの個性を消した服装から、それぞれ思い思いの服装へ劇的に変わります。

 

西東三鬼は昭和23年発刊の『三鬼百句』で、この俳句の背景をこう解説しています。

 

「薄いブラウスに盛り上がった豊かな乳房は、見まいと思っても見ないで居られない。彼女等はそれを知ってゐて誇示する。彼女等は知らなくても万物の創始者が誇示せしめる」

 

作者は敗戦後、男性たちに負けじと若い女性たちがどんどん社会に出ていこうとしていく、そんな女性のたくましさに驚きと力強さを感じたのでしょう。

 

「おそるべき君等の乳房夏来る」の表現技法

句切れなし

「句切れ」とは、言葉の意味や内容、俳句のリズムの切れ目のことです。

 

この句は、五・七・五の十七音の中に、最後まで意味が区切れるところがありませんので、「句切れなし」となります。

 

「おそるべき君等の乳房夏来る」の鑑賞文

 

この句は戦争が終わり、若い女性たちがどんどん社会へ出ていく時代が訪れ、女性の存在感がますます大きく感じられる、そんな夏が来るという句です。

 

女性たちと活力あふれる姿や生命力あふれる「夏」の存在が、とても明るく想像できます。

 

作者は戦争が終わり、思い思いの服装になった女性たちの豊かな胸元にも、女性の大きなエネルギーを感じたのでしょう。

 

「来る」という言葉が「乳房」の後ではなく「夏」の後に付いていることで「夏」が強調され、戦争の終わりと次の季節「夏が来る!」という明るさを持った句に感じられます。

 

作者「西東三鬼」の生涯を簡単にご紹介!

 

西東三鬼は、本名は斎藤敬直(さいとうけいちょく)といい、明治33年(1900年)に岡山県苫田郡津山町、現在の岡山県津山市に生まれました。

 

1906年に父を亡くし、長兄の扶養を受けて育ちましたが、1918年には当時大流行したスペイン風邪で母を亡くしました。

 

三鬼は1925年に日本歯科医学専門学校(現在の日本歯科大学)を卒業し、その秋に結婚しました。

 

父を亡くした後、長兄の扶養を受けていたこともあり、大学を卒業後は、長兄が在勤していたシンガポールで歯科医を開業しました。

 

しかし、不況による反日運動の高まりと三鬼自身の体調不良のため帰国し、東京で医院を開業します。

 

1932年には廃業し、1933年に東京の神田共立病院歯科部長に就任しました。

 

その頃、患者さんに誘われて俳句を始めます。号である「三鬼」は、その時にすぐ作られたと言われ、「サンキュー」という言葉をもじったとも言われています。

 

歯科医師の傍ら、俳誌「走馬燈」に投句を始め、1936年ごろまでには「青嶺」「天の川」「ホトトギス」「馬酔木」「京大俳句」など様々な系統の俳誌に投句しました。

 

1935年には同人誌「扉」を創刊し、「京大俳句」にも参加し始め、新興俳句運動の中心的な存在となります。新興俳句運動に参加していたこともあり、三鬼は伝統的な俳句の形にとらわれることなく、無季俳句など自由な発想の俳句をたくさん詠みました。

 

1947年には、現代俳句協会を設立。そして翌年、山口誓子の句集に感銘を受け、誓子を擁して「天狼」を創刊。1952年には、「断崖」を創刊、主宰します。

 

しかし、1961年に胃がんを発病し、1962年に61歳で亡くなりました。

 

三鬼が亡くなった後、1992年に故郷の津山市で、三鬼の業績を記念し、「西東三鬼賞」という俳句の大会が創設されました。

 

西東三鬼のそのほかの俳句

 

  • 算術の少年しのび泣けり夏
  • 水枕ガバリと寒い海がある
  • 中年や遠くみのれる夜の桃
  • 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
  • 枯蓮のうごくとき来てみな動く
  • 馬を少女瀆れて下りにけむ
  • 広島や卵食ふ時口ひらく
  • 中年や遠くみのれる夜の桃
  • 頭悪き日やげんげ田に牛暴れ
  • 赤き火の哄笑せしが今日黒し
  • 緑蔭に三人の老婆わらへりき