【文月や六日も常の夜には似ず】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五・七・五の十七音に四季を織り込み、詠み手の心情や情景を伝えることができます。

 

今回は、有名俳句の一つ「文月や六日も常の夜には似ず」をご紹介します。

 


本記事では、「文月や六日も常の夜には似ず」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「文月や六日も常の夜には似ず」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

文月や 六日も常の 夜には似ず

(読み方:ふみづきや むいかもつねの よにはにず)

 

この句の作者は、「松尾芭蕉」です。

 

江戸時代初期に活躍し、俳句を和歌と並ぶ芸術へと高めた日本史上最高の俳諧師の一人とされています。

 

この句は代表作「奥の細道」に収められています。

 

 

季語

この句の季語は「文月」、季節は「秋」です。

 

文月とは、旧暦の七月のことです。

 

なぜ七月なのに秋の季語?と思う方もいるかもしれません。

 

旧暦では、新暦と1か月近く季節のずれがあります。4~6月は夏、7~9月が秋です。俳句の季語は旧暦によって決まっているため、七月は秋となります。

 

文月の由来は諸説ありますが、七夕に書物を干す行事があり、書物(文)を披(ひら)くことから「文披月(ふみひろげつき)」と呼ばれるようになり、文月となったとされています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「明日がいよいよ七夕の夜だと思うと、前日の今日76日の夜も、何となくいつもの夜とは違って、趣深い夜だ。」

 

という意味です。

 

七夕は、織姫と彦星が出会う1年に1度の夜です。そんな七夕の前日のわくわくする高揚感が伝わってきます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、「奥の細道」の中の一句です。

 

「奥の細道」とは、松尾芭蕉と弟子の河合曾良が江戸を出発して、155日間の東北から北陸を経て美濃国までを巡った旅を記した紀行文です。

 

 

この句は元禄2年(1689年)に越後の直江津(現在の新潟県上越市北部)にて詠まれました。

 

芭蕉は旅の中で、泊まり歩いた地で句会を開き、その土地の人々と連句を巻いていました。76日の夜も、この句を発句として句会を開いたそうです。

 

こうした土地の人々との交流から、芭蕉は俳句に不易流行の理念を持つようになります。

 

簡単に言うと、不易とは「変わらないこと」、流行とは「移り変わるもののこと」です。「伝統などの変わらないことは基本として大事にしながらも、状況に応じて移り変わっていくことも大切だ」という意味です。この考え方は、蕉風という芭蕉一門の俳句の句風となります。

 

ちなみに、芭蕉が滞在していた連日の天気は雨模様で、翌日の七夕は強い雨が降りました。芭蕉は、七夕の空に天の川を見ることはできませんでした。

 

「文月や六日も常の夜には似ず」の表現技法

「文月や」の「や」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」が代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

「や」は上の句(五・七・五の最初の5文字)で使われ、詠嘆の表現や、呼びかけに使われる言葉です。

 

また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。句切れは、意味や内容、リズムの切れ目で、この句は初句に「や」がついており、「初句切れ」の句となります。

 

「文月や六日も常の夜には似ず」の鑑賞文

 

現在も、七夕の季節になると笹の葉に短冊を飾ったり、給食には特別なメニューが出たりと、わくわくする方も多いのではないでしょうか。

 

実は、笹の葉に短冊を飾る風習は、江戸時代からあり、神事として行われていたと言われています。厳かな雰囲気すら漂う前日の夜に、芭蕉が子供のように七夕の夜を待ちわびている姿が浮かんできます。

 

天の川などの季語を詠んだ、七夕に関する俳句は多く、芭蕉自身も「天の川」を季語に「荒海や佐渡に横とう天の川」の句を後日に詠んでいます。

 

 

しかし、前日の夜の雰囲気を詠んでいる句はあまり見かけません。

 

この句は、七夕や天の川などの直接的な表現を使わずに、七夕への気持ちを詠みこんだ芭蕉の俳句のうまさが表れている一句です。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644年伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。本名は松尾忠右衛門、のち宗房(むねふさ)といいます。

 

13歳のときに父親を亡くし、藤堂家に仕え10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし俳諧を始めます。

 

俳人として一生を過ごすことを決意した芭蕉は、28歳になる頃には北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されました。若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みました。

 

40歳を過ぎる頃には日本各地を旅するようになり、行く先々で俳句を残しています。46歳の時に弟子の河合曾良と「奥の細道」の旅へと出ます。旅から戻ったあとは、「奥の細道」の執筆や俳句を詠みながら、大津、京都、故郷の伊賀上野などあちこちに住んでいました。

 

1694年、旅の途中の大阪にて体調を崩し51歳にて死去しました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia