【菜の花の中へ大きな入日かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

幅広い年齢層に親しまれている「俳句」。

 

芸能人が俳句を詠む番組を見て、俳句を詠み始めたというかたも多いのではないでしょうか。

 

今回は、有名俳句の一つ「菜の花の中へ大きな入日かな」をご紹介します。

 


本記事では、「菜の花の中へ大きな入日かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「菜の花の中へ大きな入日かな」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

菜の花の 中へ大きな 入日かな

(読み方:なのはなの なかへおおきな いりひかな)

 

この句の作者は、「夏目漱石(なつめそうせき)」です。

 

漱石は日本近代文学の代表作家として知られており、「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「三四郎」「こころ」などの作品が有名です。

 

 

季語

この句の季語は「菜の花」、季節は「春」です。

 

春に一面の黄色い菜の花畑を見たことがある人も多いのではないでしょうか。

 

菜の花は、アブラナ科の植物です。その歴史は古く、弥生時代には存在しています。鑑賞用としてではなく、油を採るために栽培され、その油は主に灯油として用いられていました。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「夕暮れ時、菜の花畑に大きく赤い太陽が、今ゆっくりと沈んでいくところだ」

 

という意味です。

 

入日とは、夕方に西の方へ沈む太陽のことです。夕日、落日ともいいます。

 

「菜の花の中へ」とあると、一輪の菜の花も思い浮かびます。しかし「大きな入日」が入るのは菜の花畑ではないかと読み取れるため、このような訳になっています。

 

この句が詠まれた背景

この句は、明治304月に詠まれました。「正岡子規に送りたる句稿 その二十四 四月十八日」の中の一句です。

 

夏目漱石と正岡子規は、大学の予備門で同級生として出会いました。

 

明治30年の頃、子規は病で長らく床に臥せっていました。そのような容態でも子規庵で積極的に句会を開き、俳句を続けていました。

 

そんな子規のもとへ、漱石は俳句を送っていたのでしょう。

 

2人の学生時代からの交流は、亡くなるまでずっと続きました。

 

「菜の花の中へ大きな入日かな」の表現技法

(1)「入日かな」の「かな」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

「かな」は末尾(五・七・五の最後の5文字)で使われ、詠嘆の表現や、感動を表す言葉です。

 

ここでは、漱石が「入日の美しさ」に感動している様子が読み取れます。

 

また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。句切れは、意味や内容、リズムの切れ目です。この句は三句目に「かな」がついており、「句切れなし」の句です。

 

「菜の花の中へ大きな入日かな」の鑑賞文

 

この句は一面に広がる菜の花畑へ、海に夕日が沈むように、ゆっくりと日が沈んでいく様子を詠んでいます。

 

入日に黄色い菜の花が照らされて、そしてだんだんと夜の深い色に染まっていく、奥深い色彩の移り変わりも想像できます。

 

この句を詠んでみると「な」の音がたくさん出てきます。

 

漱石が意図していたのかはわかりませんが、「な」の音をたくさん用いることでリズムが良く、句に柔らかさが生まれています。

 

夏目漱石は、最初から小説家であったわけではありません。文学のスタートは「俳句」で、生涯で2600余りの句を残しています。その句風はさっぱりとしていて、趣味の落語を反映したのか、洒落が効いている句が多かったようです。

 

この句は洒落というより、趣のある情景を表現した句です。こうした表現の幅の広さから、漱石の文学的才能がいかに優れていたか、がわかります。

 

作者「夏目漱石」の生涯を簡単にご紹介!

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(夏目漱石 出典:Wikipedia)

 

夏目漱石は、186729日に東京都新宿区に生まれました。本名は夏目金之助といいます。

 

幼少期は不遇で、1889年に大学の予備門で出会った正岡子規が、金之助に文学的、人間的な影響を与えます。

 

子規が手掛けた漢詩や俳句などの文集「七草集」が学友の間で回覧された際に、漢詩で批評を書いたのが金之助でした。

 

そこから二人の友情が芽生え、子規は、ペンネームの一つであった「漱石」を金之助に譲り、そこから「夏目漱石」と名乗るようになりました。

 

1890年には東京帝国大学へと入学しますが、相次ぐ兄姉の死もあり、厭世主義・神経衰弱に陥るようになったともいわれています。

 

卒業後は、英語講師として各地を転々としており、1900年にイギリスへ留学しました。留学中の1902年に子規が亡くなります。帰国後も教鞭をとりましたが、精神衰弱が激しかったとされています。

 

1905年に正岡子規の弟子であった高浜虚子に精神衰弱の治療の一環として創作を勧められ、処女作「吾輩は猫である」を発表します。その後も立て続けに作品を発表し一躍、人気作家となりました。1907年には朝日新聞社へ入社し本格的に職業作家として活動していきます。

 

作家として活躍しながらも、度重なる胃潰瘍に悩まされ1916129日に49歳にて亡くなりました。

 

夏目漱石が詠んだそのほかの俳句