五・七・五のたった十七音で、作者の心情や見た景色を綴る「俳句」。
季語を使って表現される俳句は、その短い言葉の中で、作者の心情や自然の豊かさを感じることができます。
今回は、松尾芭蕉の有名な句の一つ「今日よりや書付消さん笠の露」という句をご紹介します。
『今日よりや 書付消さん 笠の露』 『 行き行きて 倒れ伏すとも 荻の原』 この二つの句を見て意味知った時、涙が出た。
— けいら (@keira_e) April 26, 2011
本記事では、「今日よりや書付消さん笠の露」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「今日よりや書付消さん笠の露」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
今日よりや 書付消さん 笠の露
(読み方:けふよりや かきつけけさん かさのつゆ)
この句の作者は、「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。
江戸時代前期の俳諧師で、与謝蕪村や小林一茶などと共に、有名な江戸俳諧の巨匠の一人です。
旅を通して様々な句を読み、俳諧を新しい芸術として創りあげました。「さび」「しをり」「軽み」という精神を蕉風として完成させました。
季語
この句の季語は「露(つゆ)」、季節は「秋」です。
「露」とは、草の葉や石の上などに付いている水滴のことです。露は一年中発生するのですが、秋に最も多く出来るので、俳句の中で「露」と表現する場合は、秋の季語となります。
また、「露」という季語が使われていると、涙の意味を表すことが多いです。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「ずっと旅を続けてきた曾良とはここで別れ、これからは一人道を行くことになる。笠に書いた「同行二人」の文字も、秋の露と私の涙で消すことにしよう。」
という意味です。
この句に出てくる「書付」とは、笠に書いた「同行二人」の文字のことです。
芭蕉は旅の初めに、笠の裏に「乾坤無住、同行二人(けんこんむじゅう、どうぎょうににん)」と書きました。「乾坤無住、同行二人」とは、「天地の間にとどまるところはなく、仏と自分が一体となって旅をする」という意味です。
本来、「同行二人」は仏と自分の意味ですが、ここでは自分(芭蕉)と曾良に置き換えて表しています。また、「露」は「涙」を暗示しており、芭蕉が曾良との別れを悲しんで詠んだ句です。
この句が詠まれた背景
この句は、「おくのほそ道」の「山中」に収められています。
この句は元禄2年(1689年)ごろ、芭蕉が46歳の頃に詠まれたとされています。
旧暦7月27日に到着した、加賀の山中温泉での出来事です。少し前から体調を崩していた曾良はお腹の調子が良くならず、伊勢の国長島の親族のところへ、先に行くこととなりました。
旧暦8月5日、曾良が離れる際に以下の句を書き置きました。
「行行て たふれ伏とも 萩の原(ゆきゆきて たおれふすとも はぎのはら)」
【意味】このまま歩き続けて行けるところまで行き、途中で倒れてしまっても、その場所が萩の花の咲く野原であれば、思い残すことはない。
この曽良の句を受けて、芭蕉が今まで共に旅してきた曾良との離別を悲しみ詠んだのがこの句です。
「今日よりや書付消さん笠の露」の表現技法
「今日よりや」の切れ字
切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動や伝えたい言葉の前に使います。
この句は「今日よりや」の「や」が切れ字にあたります。
「や」で句の切れ目を表すことで、今日から一人で旅をするという芭蕉の寂しさが強調されているように感じられます。
また、五・七・五の五の句、一句目に切れ目の「や」があることから、この句は「初句切れ」となります。
「笠の露」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。
体言止めを使うことで、美しさや感動を強調したり、読んだ人を引き付ける効果があります。
「笠に書かれた文字を、秋の露と私の涙で消してしまおうか…」と、曾良とは別れ、これから一人で旅していくという芭蕉の悲しい気持ちが強調されています。
「今日よりや書付消さん笠の露」の鑑賞文
この句が詠まれたのは、おくのほそ道の旅が49あるうちの43番目、石川県加賀市の大聖寺(だいしょうじ)での出来事で、3月末に江戸を出てから旅も終盤にさしかかる8月初めのことです。
少し前から体調を崩していた曾良は、一つ前の山中温泉で少し休んだにも関わらず、つい旅を共にすることができなくなりました。
旅を離れる曾良の書き置いた句を受けて、芭蕉はこの句を詠みました。
笠に「同行二人」と書いて、ずっと一緒に旅してきた曾良との別れは、芭蕉にとってとても悲しく寂しいものであったでしょう。
これから一人で行く旅と、曾良のことを心配しながら、笠を見つめる芭蕉の姿が目に浮かびます。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉は、本名を松尾宗房(むねふさ)といい、寛永21年(1644年)伊賀上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。
芭蕉は13歳の時に父親を亡くし、19歳の時に、藤堂良忠に仕えました。良忠が俳人であったため、芭蕉も俳諧の道に入ったとされています。
芭蕉が23歳のとき、仕えていた良忠が25歳の若さで亡くなったため、藤堂家を退き、江戸に向かいました。
江戸での修行の甲斐あって、俳諧宗匠になるものの、俳諧宗匠としての安定した生活を捨て、37歳の時に深川の芭蕉庵に移り住みました。その理由は、厳しい暮らしの中に身を投じることで、文学性を追求しようとした、とされています。
芭蕉は、数々の旅に出て俳句を詠み、「野ざらし紀行」「鹿島紀行」「笈の小文」「更科紀行」などの本にまとめました。
芭蕉が46歳の時、門人の曾良とともに江戸を出発し、約5ヶ月間にも及ぶ長い旅に出ました。その旅の中で、たくさんの優れた俳句を生み出しました。おくのほそ道は、この長い旅の記録と旅の中で詠んだ俳句をまとめた俳諧紀行文です。
旅から5年後の元禄7年、推敲を重ね、おくのほそ道が完成しました。その年、芭蕉は旅の途中、大坂にて51歳で亡くなりました。
芭蕉は、和歌の連歌から始まった俳諧を独立した芸術として発展させました。数多くの旅を通して名句を生み、俳諧の世界を広げ、俳諧文学を確立させました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)