【一つ根に離れ浮く葉や春の水】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は、五七五という短いリズムの中に、自分の感情や季節の美しさを詠むことができる文学です。

 

俳句を詠うことで、日本語の美しさを改めて知ることができ、豊かな心も表現できます。

 

今回は、高浜虚子の有名な句の一つ「一つ根に離れ浮く葉や春の水」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「一つ根に離れ浮く葉や春の水」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「一つ根に離れ浮く葉や春の水」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

一つ根に 離れ浮く葉や 春の水

(読み方:ひとつねに はなれうくはや はるのみず)

 

この句の作者は、「高浜 虚子(たかはま きょし)」です。

 

高浜虚子は、明治から昭和にかけて活躍し、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱え、『ホトトギス』を発行するなどし、俳句の基本を築いた人物です。虚子は多くの俳人も育て上げ、日本の俳人界に多大な影響を与えました。

 

 

季語

この句の季語は「春の水」、季節は「春」です。

 

「春の水」は、春になり冬の間凍っていた水が解け、勢いをまして流れていく様子をいいます。春の勢いづいた水に、生命の強さを感じます。冬の間に辛く冷たかった水が、温かく感じられるようになり、春の訪れを知ることができます。

 

また、「春の水」は、春の小川や池、井戸など様々な水のことをいいますが、春の海として使われることはありません。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「春の水の表面に、二つに分かれた葉が浮かんでいる。しかし、水面下をよく見てみるとその分かれた葉の茎は、同じ一つの根から出ていることだ。」

 

という意味です。

 

この句は虚子が春先に鎌倉神社の横手を散歩していた際、その溝の水面に浮かぶ葉を見て詠んだと言われています。

 

この句が詠まれた背景

この句は、詞書に「大正二年春。虚子庵句会」とあるため、虚子が三十九歳の頃に詠んだ句であると考えられます。

 

虚子は、俳句雑誌『ホトトギス』に「俳句の作りやう」の題で自身の俳句について記しており、「一つ根に離れ浮く葉や春の水」の句の解説も掲載されています。

 

「俳句の作りやう」によると、この句は春先に鎌倉神社の横手を散歩していた際、その溝の水面に浮かぶ葉のことを詠ったものです。

 

温かくなった春の水の中で浮かぶ、冬の名残である「藻草」と春の象徴的な「浮葉」。

 

その浮葉は分かれた二枚であったかと思われましたが、観察を続けると実は水面下で一本の根でつながったものでした。

 

この句は、虚子が「じっと眺め入る」中で見つけた「春」の発見の喜びという、写生への努力の中でうまれた作品です。

 

「一つ根に離れ浮く葉や春の水」の表現技法

二句切れ

この句は、切れ字「や」があり二句切れの句となっています。

 

「離れ浮く葉や」とすることで、「葉」に詠嘆の意味をもたせています。

 

体言止め

「体言止め」とは、句の終わりを体言(名詞)で終わる表現方法のことです。「体言止め」を用いることで、使われた語の強調や余韻を残す効果を、読み手に与えることができます。

 

この句は、「春の水」と名詞で終わる「体言止め」の手法を用いています。「春の水」と体言止めの技法を用いることで、読み手に強く印象づけています。

 

「は」の音の多用

この句では、「離れ」「葉」「春」と「は」の音をもつ語が、連続で使われています。

 

「は」の音が続くことで、句にリズム感を持たせる効果を生んでいます。

 

「一つ根に離れ浮く葉や春の水」の鑑賞文

 

虚子が鎌倉の神社を散歩していると、神社の溝にある水を発見しました。

 

まだ風には寒さが残っていますが、虚子は水の中に春が来ていることに気づき、溝の水をのぞき込みます。溝の水の中には、二枚の葉が浮かんでいました。

 

虚子が更に凝視すると、二枚の葉からそれぞれ水中に茎が伸び、一本の茎となって水底に根をおろしていることを発見するのです。

 

春の水に浮かぶ二枚の浮葉からは、強い生命感を感じさせられます。

 

この句では、虚子の主観は表現されていません。「じっと眺め入る」という、虚子の「客観写生」観のもとにこの句は作られています。

 

「客観写生」とは、俳句を詠む対象を、作者の主観を入れずに見たままを表現する俳句の理念のことです。

 

虚子が主張した「客観写生」は、「一つ根に」の俳句が始まりともいわれています。

 

俳句は、対象を主観なくひたすら客観的にみること、写生することから始まるということを、この句から学ぶことができるといえるでしょう。

 

作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!

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(高浜虚子 出典:Wikipedia)

 

高浜虚子は、1874年(明治7年)に愛媛県松山市長良新町で池内家に五男として生まれ、松山城近くの地で幼年時代をすごしました。本名は、清といいます。虚子は9歳の頃祖母の家に入ることとなり、祖母の姓「高浜」を継ぐようになったといわれています。

 

1885年、伊予尋常中学校で河東碧梧桐と同級となり、その後碧梧桐を通じて同郷の先輩である俳人、正岡子規と出会います。1891年には、帰省した子規から本名の「清」にちなんだ「虚子」の号を与えられました。その後、虚子は子規を頼って上京し、子規の門弟として活躍するようになります。

 

1898年、子規の後見のもと俳誌「ホトトギス」を編集発行を始めます。「ホトトギス」には、夏目漱石の『吾輩は猫である』を掲載し、作品を世に広める功績を虚子は残しました。

 

1987年、碧梧桐の元婚約者の大畠いとと結婚し、二男六女をもうけました。虚子の長男である俳人高浜年尾は「ホトトギス」代表をつとめ、次女は俳人星野立子として活躍。1907年に子規が病気で亡くなった後、虚子は次第に小説を基盤に活躍するようになります。

 

虚子の盟友であった碧梧桐は、子規の死後「新興俳句」という従来の型を打ち破る俳句を主張するようになったため、虚子は俳壇に戻り、伝統俳句を守る「守旧派」を宣言しました。

河東碧梧桐などの、自由律俳句運動に対立するため、虚子は「春風や闘志いだきて丘に立つ」という句を掲げて俳句運動を活発に展開させていきます。

 

虚子は、子規の唱えた「写生」を守り、俳句の伝統を守ることで俳句を世に広めることに成功しました。虚子の影響力は、「ホトトギス」によって確実なものとなったのです。

 

虚子の句は、「客観写生」「花鳥諷詠」の概念のもとに作られました。「花鳥諷詠」も「客観写生」と同じく虚子の造語です。

 

1954年には文化勲章受章しましたが、1959年、50年間をすごした鎌倉の地で、85歳で虚子は病気のため死去しました。

 

虚子は、生前20万句以上もの俳句を作ったといわれています。また、虚子は、山口青邨、水原秋櫻子、高野素十、阿波野青畝、山口誓子、飯田蛇笏、中村草田男など多くの有名俳人も輩出する功績も残しています。多くの俳人が、虚子の影響をうけてきたといえるでしょう。

 

高浜虚子のそのほかの俳句

虚子の句碑 出典:Wikipedia