【世の人の見付けぬ花や軒の栗】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の思いや見た風景を綴り詠む「俳句」。

 

季語を使って表現される俳句は、たった十七音で、作者の心情や自然の姿を感じられます。

 

今回は、松尾芭蕉の有名な句の一つ世の人の見付けぬ花や軒の栗という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「世の人の見付けぬ花や軒の栗」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「世の人の見付けぬ花や軒の栗」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

世の人の 見付けぬ花や 軒の栗

(読み方:よのひとの みつけぬはなや のきのくり)

 

この句の作者は、「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。

 

江戸時代前期の有名な俳諧師で、与謝蕪村や小林一茶などと共に、江戸俳諧の巨匠の一人です。数々の旅を通して様々な句を読み、俳諧を新しい芸術として創りあげました。

 

 

季語

この句の季語は「栗の花(くりのはな)」、季節は「夏」です。

 

「栗の花」は山野に自生し人家や畑でも栽培され、6〜7月頃に花を咲かせます。独特の強く青臭い匂いがし、花の形はとても特徴的な形をしています。

 

その特徴的な花は、芒(すすき)に似た形をしていて、遠くから見ると白い長い花のように見えます。白に近いクリーム色の花で1つひとつは小さいですが、一斉にたくさんの花が咲くため目立ちやすいです。

 

なかなか目にした記憶のない花かもしれませんが、その独特な匂いと特徴的な形で一度覚えると忘れないような花です。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「地味で目立たない栗の花は、世の中の人の目に止まらぬ花であるが、この家の主人はそんな栗の木を軒近くに植えて、ひそかに隠れ住んでいる。主人の人柄をもあらわしているようで、趣深いことだ。」

 

という意味です。

 

「世の人」とは、世間一般の人という意味です。世の中のいろいろなことを避け、ひっそりと暮らすこの家の主人の奥ゆかしさをこの家の軒端にある栗の花に託して詠まれた句だと考えられます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、『おくのほそ道』の「須賀川(すかがわ)」に収められています。

 

元禄2年(1689年)ごろ、芭蕉が46歳の頃に詠まれたとされています。旧暦611日に、須賀川の可伸庵を訪れたときに詠まれた挨拶句です。

 

この句は、可伸という僧に詠んだ句で、初めは「隠れ家や目にたたぬ花を軒の栗」と詠みましたが(『曾良旅日記』)、栗の花を可伸の人柄に対する思いと絡ませて、「世の人の見付けぬ花や軒の栗」と詠み直しました。

 

そして、この句には以下のような前詞が書かれています。

 

「栗といふ文字は西の木と書きて西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生、杖にも柱にもこの木を用ひ給ふとかや」

(意味:栗の木と言うのは、西の木と書き、元は西方浄土の木であって、行基菩薩の日々の暮らしを支えた杖や、おられる住まいの柱にも栗の木が用いられたらしい)

 

奈良の大仏の制作を指揮した行基も、栗の木の物をいつも使っていたことを書き、「あの行基菩薩とこの家の主人である可伸は、同じ思いをこの栗の木に託しているに違いない」と、芭蕉は考えたのではないでしょうか。

 

「世の人の見付けぬ花や軒の栗」の表現技法

「見付けぬ花や」の切れ字

切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動や伝えたい言葉の前に使います。

 

この句は「見付けぬ花や」の「や」が切れ字にあたります。「見付けぬ」とは、見いだせないという意味です。

 

「や」で句の切れ目を表すことで、「世の中の人には目にとまらず、この栗の木の花を見いだすことはできないが、この家に住む主人は、そんな栗の花の趣に気付いている」と、栗の花の存在を強調しています。

 

また、五・七・五の七の句、二句目に切れ目の「や」があることから、この句は「二句切れ」となります。

 

「軒の栗」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

体言止めを使うことで、美しさや感動を強調したり、読んだ人を引き付ける効果があります。

 

可伸の家の軒にある目立たない存在の栗の木と、ひっそりと隠れ住んでいる可伸のことを、栗の木や花と重ね合わせ、「軒の栗」と体言止めすることで、栗の木や栗の花の存在を強調しています。

 

「世の人の見付けぬ花や軒の栗」の鑑賞文

 

この句が詠まれたのは、『おくのほそ道』の旅が49あるうちの13番目、福島県須賀川市の須賀川の宿場で滞在していた時の出来事です。

 

 

栗の木を軒近くに植え、ひっそりと隠れるように住んでいる可伸という僧にあてて詠んだ句です。

 

芭蕉は、世の中のいろいろなことを避けてひっそりと暮らす可伸の自由さと、安定した江戸での暮らしを捨て、定住したり旅をしたりを繰り返しながら俳句を詠んでいる自分とを、似ている存在に感じたのではないでしょうか。

 

可伸の奥ゆかしさを栗の花に託して詠んだこの挨拶句は、可伸にとって嬉しい一句だったことでしょう。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)伊賀上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。 本名は松尾宗房(むねふさ)といいます。

 

13歳の時に父親を亡くしたため、19歳の時、藤堂良忠に仕えました。良忠が俳人だったため、芭蕉も俳句を始めたとされています。

 

しかし、芭蕉が23歳のとき、仕えていた良忠が25歳の若さで亡くなりました。そのため、仕えていた藤堂家を退き、江戸に向かい、江戸での修行の甲斐あって俳諧宗匠になりました。

 

37歳の時に俳諧宗匠としての安定した生活を捨て、深川の芭蕉庵に移り住みました。理由は、厳しい暮らしをすることで、文学性を追求しようとしたとされています。

 

そして芭蕉が46歳の時、河合曾良とともに江戸を出発し、約5ヶ月間にも及ぶ長い旅に出ました。旅から5年後の元禄7年、推敲を重ね、『おくのほそ道』が完成しました。おくのほそ道は、この長い旅の記録と旅の中で詠んだ俳句をまとめた俳諧紀行文です。

 

しかし、その年に芭蕉は旅の途中、大坂にて51歳で亡くなりました。

 

芭蕉は、数々の旅に出て俳句を詠み、『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』などの本にまとめています。また、芭蕉は、和歌の連歌から始まった俳諧を独立した芸術として発展させ、俳諧の世界を広げました。数多くの旅を通して名句を生み、俳諧文学を確立させました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia