【木啄も庵はやぶらず夏木立】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

数秒で詠み手の感動や意図を伝えることができ、最近では誰でも気軽に始めることができる趣味のひとつともなっています。

 

今回は、有名句の一つ「木啄も庵はやぶらず夏木立」という句をご紹介します。

 


本記事では、「木啄も庵はやぶらず夏木立」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「木啄も庵はやぶらず夏木立」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

木啄も 庵はやぶらず 夏木立

(読み方:きつつきも いおはやぶらず なつこだち

 

この句の作者は「松尾芭蕉」です。

 

 

この句は、国語の教科書などでもおなじみの「奥のほそ道」の中に収録されている一句です。

 

「奥のほそ道」とは、松尾芭蕉が弟子の河合曾良(そら)を伴い江戸を発ち、5か月かけて東北から北陸を経て美濃国大垣までの旅を記した紀行文です。

 

季語

この句の季語は「夏木立」、季節は夏」です。

 

夏木立(なつこだち)とは、夏の(青々と、また深々と)生い茂る木立のことです。

 

木立とは、立ち並んで生えている木、木の群がりのことをいいます。

 

ちなみに、木啄は秋の季語ですが、ここでは季語として詠みません。

 

 

【CHECK!!】季重なりと季違い

 

この句では、木啄(きつつき)も季語ではないか?と思うかもしれません。

木啄とは木の幹をつついて虫を捕る、あかげらなどのキツツキ科の鳥の総称です。

木啄の季語は、秋。そうなると、この句に夏と秋の2つの季語があることになります。

このように1つの句に季語が2つ以上ある場合を季重なりといいます。また、季重なりの中でも夏と秋、まったく違う季節の季語が入っていることを季違といい、どちらも俳句ではやってはいけない技法とされています。

しかし、俳句のなかでどちらの季語が主役の役割か、はっきりしている場合は季重なりでも良いとされます。

この句の場合、主役は夏木立。木啄は季語の役割は果たさず、単なる名詞となります。

ややこしいですが、季語でも組み合わせ次第では、季重なりとはならないということです。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「寺をつついて壊してしまうというきつつき。その鳥も、さすがにこの庵だけはつつかず、そのままにしておいたのであろう。昔ながらの小さい庵が破れずに夏木立の中に残っている。 」

 

という意味です。

 

きつつきは寺などの木造建築物をつついてしまうため、寺つつきとも呼ばれていました。

 

この句が詠まれた背景

松尾芭蕉は、栃木県那須郡黒羽町(現在は廃止され大田原市となっています)に立ち寄り、2週間ほど滞在しました。

 

芭蕉はそこにある雲厳寺という寺の奥に、自分が禅を学んだ師である仏頂(ぶっちょう)和尚が山ごもりした跡が残っているとのことでたずねてみました。

 

 

仏頂和尚とは、芭蕉が旅に出る前に芭蕉庵の近くに滞在していたことがあり、そこで交流がありました。

 

その時に、仏頂和尚が、「竪横の五尺にたらぬ草の庵むすぶもくやし雨なかりせば」と松の炭で庵の岩に書きつけたとの話をしていたからです。

 

この仏頂和尚の句の意味は、「ひとつの所に住み続けることはしないと決めているのに、このわずか五尺(1.5m)四方の庵をむすんでいることもくやしいことだ。雨さえ降らなければ、さっさと捨ててしまうものを。」という意味です。

 

芭蕉は、和尚が話をしていた庵はどのへんだろうかと後ろの山にのぼったところ、石の上に小さな庵が岩窟にたよるようにつくってあるのを見つけました。

 

それを見てこの句を詠み、柱にかけて残したと記しています。

 

「木啄も庵はやぶらず夏木立」の表現技法

「庵はやぶらず」の「ず」の切れ字

切れ字は18種類あり「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに用いる表現技法です。

 

この句は「庵はやぶらず」の「ず」が切れ字にあたります。

 

また、五・七・五の五(初句)の次の七、つまり二句に句の切れ目があることから、二句切れとなります。

 

「夏木立」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める俳句の技法です。

 

体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する・読んだ人を引き付ける効果があります。

 

青々とした深い木立の中の小さな庵の静かな様子をひきたたせます。

 

「木啄も庵はやぶらず夏木立」の鑑賞文

 

芭蕉は、この夏木立の中の石の上にひっそりとたたずむ小さな庵を見た際に・・・

 

「名僧妙禅師の死関や、法雲法師の石室とはこんな様子だったのか、と思えるばかりだ」

 

と「奥のほそ道」に記しています。

 

妙禅師は中国臨済宗の高僧で、悟りを開いたのち、張公洞(ちょうこうどう)という鍾乳洞にこもり、「死関」と書いた額をかかげ、人々に教えをさずけながら十五年を過ごしました。

 

法雲法師は、晩年に庵を切り立った岩の上につくり、人々に仏の教えを説いたといわれています。

 

自分が禅を学んだ師・仏頂和尚の修行をしていた場所へ辿り着いたとき、和尚の修行の日々を思い過去の僧たちと同じくらい尊い場所だと感じたことでしょう。

 

また、「寺つつき」といわれる木啄も、寺はつついてもこの尊い小さな庵をつつくことはしないという思いが「庵はやぶらず」の「は」に込められているように感じます。

 

ひとつの所にとどまらず修行を続ける志に、同じ旅を続ける芭蕉も尊敬の念とともに大いに心を動かされたことでしょう。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644年伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。

 

本名は松尾忠右衛門、のち宗房(むねふさ)といいます。

 

13歳のときに父親を亡くし、藤堂家に仕え10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし俳諧を始めました。

 

俳人として一生を過ごすことを決意した芭蕉は、28歳になる頃には北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されます。

 

若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積み、40歳を過ぎる頃には日本各地を旅するようになり、行く先々で俳句を残しました。

 

芭蕉は「奥のほそ道」の旅から戻り、大津、京都などに住みました。

 

そして1694年、旅の途中大阪にて体調を崩し51歳にて死去しました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia