五・七・五の十七音に詠み手の心情や風景を詠みこむ「俳句」。
最近ではテレビ番組でも取り上げられ、趣味として楽しむ方も増えてきています。
俳句と聞けば、かの有名な俳人「松尾芭蕉」の作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
芭蕉が残した名句は数多くありますが、今回は「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という句について紹介していきます。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
松尾芭蕉#松尾芭蕉 pic.twitter.com/KZLBLJOJUL
— KORIN (@KorinHero) August 31, 2018
事実上の「辞世の句」とも呼ばれるこの句には、どのような心情が込められているのでしょうか?
本記事では、【旅に病んで夢は枯野をかけめぐる】の季語や意味・表現技法・作者など徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の作者や季語・意味・詠まれた背景
旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる
(読み方:たびにやんで ゆめはかれのを かけめぐる)
この句の作者は「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。
芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳諧師です。当時は言葉遊びのような位置づけだった俳諧を、形式・内容ともに芸術にまで高めた人物です。
美しい日本の風景に侘びやさびを詠みこむ作風は「蕉風」とも呼ばれ、独自の世界を切り開いていきました。
また「旅に生きた人」でも知られており、日本各地を俳句を詠みながら旅をしました。紀行文学の最高傑作とも称される『奥の細道』など、5つの旅行記を残しています。
季語
この句に含まれている季語は「枯野(かれの)」で、季節は「冬」を表します。
枯野とは、霜が降り草木もすっかり枯れ果てた冬の野原を意味しています。
虫の音も聞こえず、寒風にさらされ荒涼とした情景は詠む人に郷愁を誘います。
一方で、冬枯れの草木が鮮やかに芽吹く季節を待つ姿でもあり、やがて訪れる春への期待としても使われます。
意味
こちらの句を現代語訳すると・・・
「旅の途中、病床に臥しながらも、夢に見るのは今なお枯野を駆け巡る私自身の姿であったことだ」
という意味になります。
この句が詠まれた背景
芭蕉は51歳の頃、弟子達のいさかいを仲裁するため江戸から西方に旅に出ました。旅中、体調を崩した芭蕉は投宿した大坂の宿で休みますが、一向に回復しませんでした。日に日に病状は重くなり、そのまま亡くなってしまいます。
この句は亡くなる4日前に詠んだもので、芭蕉が残した生前最期の句となりました。死の直前にあっても旅や俳句を思う情念を素直に表現しており、辞世の句だとも言われています。
しかしこの句の前書きには「病中吟」と記されており、「病中吟」と「旅に病んで」と「病」が重複している点に芭蕉の心情が込められています。
芭蕉ほどの俳人がわざわざ「病」を重ねたのは、あくまで病気中に吟じた句だということを強調していたのではないか。つまり、芭蕉本人はこの句を詠んだ時点では、自分にとっての辞世の句であるという認識はなかったと考えられています。
こうした背景を考慮すると、元気になって今までどおり俳諧や旅を続け、もっと素晴らしい句を作りたいという願いや執念によって生まれた作品だと詠むことができます。
また芭蕉の生前、辞世の句を書き取りたいと望む門人達が多くいました。それに対し芭蕉は「平生即ち辞世なり」(常日頃から一句一句を辞世のつもりで詠んでいる」と答えています。
この言葉から芭蕉が詠んだ辞世の句はなく、強いてあげるならば全ての句が辞世の句だという説もあります。普段から死を意識して生きてきた人生観や、俳句に対する厳しい姿勢をうかがうことができます。
「芭蕉終焉の地」
大阪かなしい遺産・御堂筋久太郎町
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
無学で恥ずかしい限りですが、俳人・松尾芭蕉の亡くなられた場合が大阪で、しかもこんな御近所にあったとは知りませんでした。しかしその碑の建ってる場所たるや!御堂筋の分離帯の中😱なんとかなりませんかね。 pic.twitter.com/hcpVusRQlj— 武田善行 Yoshiyuki Takeda (@takechantakeda) October 26, 2018
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の表現技法
「旅に病んで」の字余り
字余りとは、俳句の定型である五・七・五の十七音よりも多いことを意味します。
日本人が古くから心地よいとされる七五調の響きをあえて壊すことで、読み手に違和感を与え、字余りの言葉が持つ意味を強調する効果があります。
この字余りという技法は、芭蕉が俳諧師として活躍した天和年間に流行したもので、芭蕉もその影響を受けていると言われています。
この句において「旅に病んで」と字余りでリズムを崩したことで、旅を途中で病に臥した無念さを強調したかったと汲み取ることができます。
さらに「旅に病み」ではなく「旅に病んで」とすることで、「病気になったこと」と「夢の中で枯野をかけめぐる」ことの因果関係がより明確になります。それゆえ病床に臥している現状への嘆きや、自由に駆け回れることへの憧憬がいっそう際立って感じられます。
口語的な表現にも、芭蕉の素直な心境がストレートに伝わってくるようです。
句切れなし
句切れとは意味や内容・リズムの切れ目になるところをいいます。感動の中心を表す言葉「けり」「かな」「や」などが含まれるところや、または句点「。」がつく場所がこれに該当します。
切れ字や句点が最後にしかつかない表現、または句切れがない場合を「句切れなし」と呼びます。
今回の句も「句切れなし」にあたり、下五に感動の中心をおいています。
「かけめぐる」と動詞で言い切ることで、元気だった頃の生き生きとした姿や躍動感が効果的に表現されています。
病気に苦しむ芭蕉の、夢の中でしかかけめぐることができない切なさがひしひしと伝わってきます。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の鑑賞文
この句は、「旅」「夢」といった読み手に共感しやすい語が並んでおり、「枯野」「病」には病床にある芭蕉の孤独な心象を感じさせます。
芭蕉の死因は明らかになっていませんが、当時の医療事情をふまえると病の背景には近づく「死」が想像されるでしょう。
病床に臥してもなおやまない旅と俳句への執着がにじみ出ており、読むたびに心を打たれます。
この句に詠みこまれた芭蕉の心情には、二つの解釈があります。
ひとつは、夢の中では自由に駆け回ることができるのに、現実の私は病に倒れもう旅に出ることができないという悲観的な解釈です。草木が枯れた冬の野原が舞台となっていることからも、芭蕉の旅も終わりに近づいてきていると感じるでしょう。
もう一方で、今は旅の途中で病に臥しているが、まだ夢の中では以前と同じく枯野を駆け回っているという希望が込められているという解釈。
早く回復してまた旅に出たいという未来を見据えたものとも詠むことができます。
「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の補足情報
句の推敲
芭蕉はこの句を2パターン考えていました。
弟子である支考が書いた『芭蕉翁追善日記』には・・・
此夜深更におよひて介抱に侍りける呑舟をめされ、硯のおとからからと聞えけれは、いかなる消息にやと思ふに、
病中吟
旅に病て夢ハ枯野をかけ廻る 翁
其後支考をめして、なをかけ廻る夢心といふ句つくりあり。いつれをかと申されけるに、其五文字はいかに承り候半と申さは、いとむつかしき御事に侍らんと思ひて、此句なににかおとり候半と答へけるなり。いかなる微妙の五文字か侍らん。今はほいなし。」
【訳】
「この夜(十月八日)おそくなってから呑舟をお呼びになって、その後硯を磨る音がからからと聞こえたのでどうしたことかと思ったら、
病中吟
旅に病て夢は枯野をかけ廻る 翁
と書かせられた。その後支考を呼ばれ、「なをかけ廻る夢心」と考えたのだが、どちらがいいだろうと言われた。上五はどうなるのでしょうかと聞きたかったが、体調が悪いのに余計な心労をかけてはまずいと、この句でどこが悪いことがありましょうかと答えた。しかし「なをかけ廻る夢心」が入ったら、どんな上五になったことだろう。今となっては聞くことも出来ずどうしようもない。」
推敲を繰り返し、弟子に感想を聞いていることから、芭蕉にとっては「辞世の句」ではなくあくまで病に伏している時の句であるという気持ちが伺えます。
「旅に病んで」の後の俳句
一から詠んだのはこの「旅に病んで」の句が最後ですが、実は翌日に芭蕉は自分がかつて詠んだ俳句の推敲を行っています。
「大井川 波に塵なき 夏の月」
(訳:大井川の波には塵一つなく夏の月が浮かぶ。)
という俳句を下記のように改作しています。
「清滝や 波にちりこむ 青松葉」
(訳:清滝川の波間に松の青葉が散り込み、美しいものである。)
これは芭蕉の俳句に・・・
「白菊の 目にたてて見る 塵もなし」
(訳:白菊は本当に清らかで美しく、目をこらしても一つの塵さえ見あたらない。)
というものがあり、「ちり」という言葉が共通する「大井川」の句との類似性に悩んだためでした。
「白菊の」の句を詠んだのは病床に倒れる直前の元禄7年9月27日だったため、倒れてもなお「大井川」の句の推敲を重ねていたことがわかります。
この2つの句は江戸時代初期の「木下長嘯子(ちょうしょうし)」の詠んだ下記の歌が根底にあったと言われています。
「大井河 岸の岩ほに さく花を 波のあやしと めにたててみる」
(訳:大井川の岸の大きな岩に咲く花を、波の見せる不思議と注目してみよう。)
2つの芭蕉の俳句は元になった和歌と共通したモチーフがあり、それだけに「大井川」の句のことを死の3日前まで気にしていて「清滝や」と改作していたのでしょう。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉(1644~1694年)の本名は松尾宗房(むねふさ)といい、伊賀国(現在の三重県)に生まれました。
「小林一茶」「与謝蕪村」と並び称される「江戸の三代俳人」の一人で、「俳聖」として世界的にも有名な俳人です。
農民の生まれだとされていますが、13歳の頃に父を亡くし、暮らし向きは決して豊かではありませんでした。10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし、俳諧の世界に足を踏み入れます。
芭蕉といえば「旅」に出て俳句を詠むイメージが強いかもしれませんが、実は日本各地を訪れるようになったのは40歳を過ぎてからでした。
江戸で俳諧師としても成功を収めるものの、46歳の時に「芭蕉庵」と呼ばれていた草庵を捨て「奥の細道」の旅に出ます。
江戸から東北・北陸をめぐり、岐阜の大垣で終着を迎える工程は、約2400kmにものぼるといわれています。
この旅から生まれた紀行文『おくのほそ道』は、「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人なり。」(月日は永遠の旅人であり、来ては去り来る年もまた旅人である)という有名な書き出しからはじまります。
この一文からも「旅に生きた」芭蕉の人生観が書き表されています。
51歳の頃、大阪へ向かう旅の中で体調を崩した芭蕉は、多くの門人達に見守られ息を引き取ります。芭蕉の遺言に従い、滋賀県にある木曽義仲の墓の隣に埋葬されました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(大垣市「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)