【目出度さもちう位也おらが春】俳句の季語・意味・鑑賞文・作者「小林一茶」など徹底解説!!

 

俳句は十七音で気持ちや状況を表現する趣味として、現在まで親しまれてきました。

 

今風に言えば、Twitterで簡単に気持ちをつぶやくのと同じなのかもしれません。

 

今回は数ある名句の中から目出度さもちう位也おらが春」という小林一茶の句をご紹介します。

 

 

句を目にするたびに「どんな気持ちをつぶやいているんだろう?」と気になる方もいらっしゃるかと思います。

 

本記事では、「目出度さもちう位也おらが春」の季語や意味・表現技法・作者「小林一茶」など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「目出度さもちう位也おらが春」の季語や意味・詠まれた背景

 

目出度さも ちう位也 おらが春

(読み方:めでたさも ちうくらいなり おらがはる)

 

こちらは「小林一茶」57歳のときに詠んだ句で、57歳の1年で起きた出来事をまとめた句集「おらが春」に記されています。

 

「おらが春」は一茶が亡くなった25年後に出版されており、タイトルは今回の句から取ったと言われています。

 

季語

こちらの句の季語は「おらが春」、春の季語になります。

 

おらが春は「私の新年」という意味になります。

 

俳句には春夏秋冬以外に暮と新年という時期があり、暮は12月、新年は文字通り1月を指します。

 

「おらが春」は特に新年を示しており、正月についての句であることがわかります。

 

「春」だけで季語のように思われますが、「春」のみは新春ではなく春を示すので、今回は「おらが春」で一つの季語になっています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「正月を迎えるめでたさというけれど、いい加減なものだ。私の新年はそのようなものだ」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

こちらは小林一茶が57歳のときに詠んだ句になります。

 

一茶がこの句を詠むまでの生い立ちはじつに厳しい道のりでした。

 

幼少期は母を亡くし奉公へ行き、故郷へ帰ると遺産相続問題を抱え、解決後は一茶が病気になり、結婚後にもうけた子どもが亡くなります。

 

そのような人生を歩んできた一茶が迎えた晩年の春です。

 

また、この頃の一茶は故郷である信濃(現在の長野県)の北部地方に住んでおり、雪深い地方としても知られています。

 

年老いた一茶が雪深い中、新年の準備をきっちりと行うことは難しいことでした。

 

この句には前書きがあり、現代語訳すると「年末の大掃除はしていないし、門松は立てていないし、いい加減な暮らしで正月を迎える」と書かれています。

 

「目出度さもちう位也おらが春」の表現技法

「ちう位」の意味

この句は一茶の出身である信濃地方の言葉も関係しています。

 

「ちう位」は中くらい以外にも、一茶の出身地の言葉で「いい加減」の意味もあります。

 

本来、文字通り訳せば「自分の新春はめでたさが中くらいだ」と考えられます。

 

しかし、方言として解釈すると「新春はめでたいというけれども、いい加減に迎えてしまった自分の新春だ」となります。

 

近年では、この句の前書きと合わせて解釈し、後者の方言での表現だと考えられています。

 

ちう位也の断定「也」

ちう位也には断定の「也」が用いられています。

 

この「也」と断定する言葉を使うことで句意が切れ、いい加減な状況で迎えた様子が強調されています。

 

「目出度さもちう位也おらが春」の鑑賞文

 

苦難を幾度となく迎えた一茶にとって、新春だから幸せになるとは言い難いものがあります。

 

むしろ「世間はめでたいというけれど、新年はそんなにめでたいのか?」という一茶の気持ちが見え隠れしています。

 

何もしないで新年を迎えた前書きを加え、句を詠むくらいに「適当でいい」という一茶の後ろ向きな姿勢が感じられます。

 

また、一茶は浄土真宗を信仰していたことから、あるがままの状況を受け入れるという考えがあったとされています。

 

「不幸続きの人生だけれども、周りが新春は幸せというし、そういうことなのか」と自分の人生を受け入れようとしながら、一茶なりの祝い方がうかがえます。

 

中くらいのめでたさと、適当に迎えためでたさの両方がかかっているのではないでしょうか。

 

ありのままの状況を句にすることで、一茶がネガティブながら祝おうとする本音を感じられます。

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶(1763年~1828)。本名は小林弥太郎。信濃国(現在の長野県)出身。

 

3歳で母を亡くし、江戸へ奉公に出る苦労人としても知られています。

 

また、13年続く遺産相続問題や相次ぐ子どもと妻の死など厳しい人生を送っています。

 

一茶自身も54歳頃から原因不明の病や皮膚病にかかり、晩年は非常に苦労しました。

 

さらに65歳の時には一茶の家が焼失し、その年の11月に家事を免れた土蔵で最期を迎えています。

 

そういった数々の苦労から、作風はありのままを表現するものが多く見られ、親しみやすさが特徴です。

 

小林一茶のそのほかの俳句

一茶家の土蔵 出典:Wikipedia