【プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五七五の317音から成る定型詩「俳句」。

 

日本の伝統芸能の一つで、国内外を問わず人気があります。

 

今回は、数ある名句の中から石田波郷の「プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。

 

「プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ」の季語や意味・詠まれた背景

フランス北部

(プラタナス 出典:Wikipedia

 

プラタナス 夜も緑なる 夏は来ぬ

(読み方:ぷらたなす よもみどりなる なつはきぬ)

 

この句の作者は、「石田波郷(いしだはきょう)」です。

 

石田波郷は愛媛県出身、昭和時代に活躍した俳人の一人です。

 

石田波郷は人生や生活に根ざした内容の句を得意とし、のびやかな抒情性に溢れた作風が印象的な俳人として知られています。同時に、芭蕉を学び、古典的格調の高い句を残しています。

 

季語

こちらの句の季語は「夏は来ぬ」で、季節は「初夏」を表しています。

 

この他「立夏」「夏立つ」「夏に入()る」「夏来る」「夏かけて」「今朝の夏」なども初夏の季語になります。

 

「プラタナス」という冬の北海道を連想させる植物が出てきますが、季語は「夏は来ぬ」となりますので、気を付けましょう。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「昼は強い日差しに照らされた街路樹のプラタナスの葉が緑に輝き、夜になるとプラタナスの緑が映ったかのように夜空も緑に染まる、いよいよ夏が来た」

 

といった意味になります。

 

プラタナスとは、和名で「スズカケノキ」。街路樹・庭園樹として広く用いられている樹木です。

 

夜になっても色鮮やかな若葉の緑を表現することで、夏の到来を詠っている一句です。

 

この句が詠まれた背景

この句は昭和7年(1932年)に「石田波郷」が詠んだもので、句集『鶴の眼』に収録されています。

 

石田波郷は19歳になるこの年の2月に上京。初夏にこの句を詠んでいます。

 

夜になっても緑鮮やかなプラタナスの木々の葉を用いて初夏の感覚を表現していますが、波郷の関心は「プラタナス」そのものにあるのではないかと思われます。

 

「プラタナス」という外国語の名前を使うことで、都会生活へのあこがれが、にじみ出ています。

 

「プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ」の表現技法

切れ字「ぬ」

「切れ字」は俳句で使われる技法の一つで、感動の中心を表す言葉のことです。

 

この句の切れ字は「夏は来ぬ」の「ぬ」(完了の助動詞の終止形)です。

 

夏の到来を心待ちにしていた様子を「ぬ」を用いることで強調しています。

 

「プラタナス」という切り出し

「プラタナス」という名詞で切り出すことによって句全体にリズム感を持たせています。

 

また、「鈴懸の木」ではなく、「プラタナス」という外国語の学名をあえて用いているところもこの句を印象的なものにさせています。

 

初句切れ

句切れとは、意味やリズムの切れ目のことです。

 

句切れは「や」「かな」「けり」などの切れ字や言い切りの表現が含まれる句で、どこになるかが決まります。

 

この句の場合、初句(五・七・五の最初の五)に、「プラタナス」の名詞で区切ることができるため、初句切れの句となります。

 

 

「プラタナス夜も緑なる夏は来ぬ」の鑑賞文

 

この句は、街路樹のプラタナスが外灯の灯りに照らされ漆黒の夜に浮かびあがっている様子を詠んでいます。

 

水原秋桜子の知遇を得た石田波郷は、この年にはじめて上京します。

 

当時19歳であった石田波郷は都会暮らしへのあこがれが強く、その気持ちは出だしの「プラタナス」という言葉に現れています。

 

いかにも都会らしく洗練されたイメージを持つ「プラタナス」で切り出し、そして「夜も緑なる」と、生命の力がみなぎる初夏の情景を描き、さいごに「夏は来ぬ」でしめくくっています。

 

みずみずしい抒情性を詠んだ句で、代表的な青春俳句といえます。

 

暗闇の中、外灯の灯りで浮かび上がるプラタナスのつややかな緑色の若葉に、みなぎる生命の力と都会暮らしへのあこがれを感じる一句です。

 

作者「石田波郷」の生涯を簡単にご紹介!

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(石田波郷 出典:Wikipedia

 

石田波郷(1913年~1969年)は愛媛県出身の俳人で、本名を哲大(てつお)といいます。

 

少年時代は農家で育ち、子どもの頃から俳句に親しんできました。

 

県立松山中学校4年生になると本格的に句作を始め、17歳の頃に水原秋桜子門の五十崎古郷(いかざきこきょう)と出会います。

 

古郷は波郷の才能を認め、自らが師事する東京の秋桜子の元へ波郷を送りだします。

 

その後、波郷は明治大学文芸科入学を機に最年少で「馬酔木(あしび)」編集に関わることになります。

 

その後波郷は昭和18年(1943年)の応召で中国に送られることとなりますが、肺結核を発病。手術は数回に及ぶこととなり、その度重なる療養生活を通して波郷が詠む俳句は一層陰影が濃いものになったといわれています。

 

昭和44年(1969年)11月、亨年56で心臓衰弱のため逝去しました。

 

石田波郷のそのほかの俳句

 

  • バスを待ち大路の春をうたがはず
  • 吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
  • 初蝶や吾が三十の袖袂
  • 霜柱俳句は切字響きけり
  • 雁やのこるものみな美しき
  • 霜の墓抱起されしとき見たり
  • 雪はしづかにゆたかにはやし屍室(かばねしつ)
  • 泉への道遅れゆく安けさよ
  • 今生は病む生なりき烏頭(とりかぶと)