【秋風やむしりたがりし赤い花】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

先人が残した俳句のなかには、人生のなかで遭遇した悲しみや喜びを詠んだ作品も数多くあります。

 

今回は、子を亡くした小林一茶の悲しみが伝わってくる句「秋風やむしりたがりし赤い花」をご紹介します。

 

 

本記事では、「秋風やむしりたがりし赤い花」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてください。

 

「秋風やむしりたがりし赤い花」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

秋風やむしりたがりし赤い花

(読み方: あきかぜや むしりたがりし あかいはな)

 

この俳句の作者は「小林一茶(こばやし いっさ)」です。

 

小林一茶は松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ「江戸三代俳人」のひとり。後世にまで語り継がれる素晴らしい作品を残した人物です。これまでの伝統俳句には、難しい言葉と表現が使用されていましたが、一茶はこれらを取っ払い、優しく誰でも文章を理解できる「一茶調」を確立させました。

 

この句は、誰が赤い花をむしりたがっていたのかは表記されていませんが、俳句を勉強したての初心者でもわかる内容と言えるでしょう。

 

 

季語

この句の季語は「秋風」であるため、季節は「秋」になります。

 

一方で、秋風と言っても、さまざまな風の吹き方があります。残暑の暑さが感じられる風、秋の訪れを知らせる風、冬が訪れるのであろう冷たい風など、いろいろな意味で使用される季語です。

 

意味

 

こちらの句を現代語訳すると…

 

「秋風が吹いているなあ。死んだ我が子がこの赤い花をむしりたがっていた。」

 

という意味です。

 

中句「むしりたがりし」の『し』が過去を表していますので、過去を懐かしみ詠まれた作品であると判断することができます。

 

死んだわが子の墓参りの途中、赤い花が秋風に揺られ道ばたに咲いていて「子供がよくむしりたがったあの花だ」と、秋の寂しい気配と、我が子を亡くした一茶の悲しみが伝わってきます。

 

この句が詠まれた時代背景

この句は文政2年(1819年)に、最愛の長女が亡くなってから35日目の墓参りのときに詠まれた作品です。

 

一茶は俳人としては後世に残る偉大な業績を残しましたが、プライベートは恵まれていません。

 

さまざまな苦難を乗り越えた末に、俳人としてようやく生計を立てられるようになった51歳の時に結婚し、長女「さと」が生まれます。しかし、当時流行っていた天然痘にかかった「さと」は、1歳の誕生日を迎えてからわずか数ヶ月で亡くなってしまいました。

 

さとが亡くなったのは文政2621日と記す文献があることから、35日目にあたる日が915日であるとわかります。

 

長女が好きであった赤い花を目にすることで、一茶の悲しみはより増幅したと言われています。

 

「秋風やむしりたがりし赤い花」の表現技法

 切れ字

切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使われます。

 

この句は上句「秋風や」の『や』の部分に切れ字が使われています。

 

文中に切れ字がある箇所は「句切れ」になるため、こちらで一旦「秋風よ」と一拍おいて、中句に続きます。切れ字には余韻・詠嘆を表現する役割があるため、「秋風が吹いているなぁ」と一茶が呟いている様子が感じられるでしょう。

 

体言止め

体言止めとは文末を名詞で括る表現技法で、文章にリズムを整える効果があります。

 

この句では下句「赤い花」の部分に、体言止めが使用されています。あえて文末に名詞を設定することで、歯切れが良くなり、読み手の共感を得やすくさせています。

 

「秋風やむしりたがりし赤い花」の鑑賞文

 

この句を鑑賞する時に大切なポイントは、「誰が赤い花をむしりたがっていた」のかということです。

 

前述したように、この句は文永2年に長女を亡くした35日目の墓参りの光景を詠んでいます。つまり、あの世へ旅立った長女をテーマにして詠まれた作品です。

 

「秋風に赤い花がなびいているなあ。我が子が元気な時にむしりたがっていたあの赤い花だ…。」一茶は赤い花を見て、我が子との数少ない思い出が蘇ってきたのでしょう。

 

寂しく感じられる秋の気配「秋風」に対して、鮮やかな「赤い花」が対照的に取れ、秋の寂しい気配と、我が子を亡くした一茶の悲しみがより一層伝わってきます。

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶は、1763年(宝暦13年)に長野県信濃町にある農家に生まれました。

 

一茶は俳人としては成功しますが、その人生は不運続きで家庭運に薄かったといわれています。

 

一茶は、経済的に恵まれて幼少期を過ごしますが、家庭運には恵まれておらず、幼い頃に大切な母と祖母を失ってしまいました。そして亡き母のあとに来た義母と馬が合わなかったため、15歳で実家を離れて江戸に奉公に出されてしまいます。

 

その奉公先で出会った主君「二六庵」が俳句の名人であったことから、一茶もその影響を受けて俳句の世界に足を踏み入れます。江戸時代の俳人は旅に出て句作する習わしがあったため、一茶も同じように27歳から諸国を旅して数々の作品を詠みました。

 

その俳句修行中に主君であり、俳句の師匠である二六庵と父を亡くすといった、つらい別れもありました。しかし、これらの悲しみを乗り越えて一茶は修行に励みます。

 

そのような修行の成果があり、一茶は俳句の難しい表現を取っ払って、わかりやすい言葉で句作する「一茶調」を築きました。また、松尾芭蕉とも信仰が深く、芭蕉の句風にも大きな影響をもたらしたと言われています。

 

今回ご紹介した「秋風やむしりたがりし赤い花」で解説したとおり、一茶は51歳という遅咲きで結婚して、我が子を授かりました。しかし、当時たくさんの死亡者を出した「天然痘」に妻と子どもたちが掛かり、愛する家族を亡くしています。

 

3度目でようやく手に入れた妻と子との生活も、結婚した翌年に発生した柏原の大火によって、自宅を失ってしまいました。

 

それでもなお一茶は俳人としてのプライドを持って、弟子を指南して生計を立て、65歳の時に突然死であの世に旅立ちました。

 

死後、一茶の功績をたたえて門人たちの力により、柏原に句碑が建てられています。また、没後「一茶発句集」なども刊行されて、今なおその作品は後世に語り継がれています。

 

小林一茶のそのほかの俳句

一茶家の土蔵 出典:Wikipedia