先人達が残した句のなかには、五七五の型にはまらずに自由な旋律で詠まれた「自由律俳句」も数多く存在します。
自由律俳句は伝統的な俳句の手法から離れて、作者の率直な心情をストレートに俳句に表現できる技法です。
今回は、自由律俳句を代表する俳人のひとり種田山頭火の句「この道しかない春の雪ふる」をご紹介します。
「この道しかない 春の雪ふる」
山頭火 pic.twitter.com/Wj9gv0SGMI— ともえたん (@tomoetan0210) February 5, 2016
本記事では、「この道しかない春の雪ふる」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「この道しかない春の雪ふる」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
この道しかない春の雪降る
(読み方:このみち しかないはるの ゆきふる)
この俳句の作者は「種田 山頭火(たねだ さんとうか)」です。
種田山頭人は自由律俳句によって数多くの作品を残した、明治時代を代表する俳人のひとりです。
季語
この句の季語は「春の雪」、季節は「春」です。
「春の雪」とは、立春を過ぎてから降る雪こと。季節はすでに春であるにも関わらず、雪が降っているという意味です。
しかし、こちらの俳句は自由律俳句のため、季語なしの「無季句」と考える説が一般的です。
山頭火自身が歩んで来た俳句人生を考えると、季節にとらわれずに自分の思いを自由に表現したと考えられます。以上の理由から、こちらの俳句は季語を持たない「無季句」であると言えます。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「この道しかないと進んだ旅先で思いがけずに春の雪に遭遇した。」
という意味です。
この句は、山頭火が行脚僧として諸国を巡っていた時に、自らの心情と情景を詠んだ作品です。
人生が終盤に差し掛かった今もなお、諸国を放浪するような生活しか自分には生きる道がないと、山頭火が虚しさを感じている様子が伝わってきます。
この句が詠まれた時代背景
この句は句集「草木塔」に収録されていますが、いつ頃の作品であるか詳しい年月日については不明です。
句集「草木塔」に収録されている作品が詠まれた時期は、山頭火が行脚僧として諸国を旅する生活をしていた時です。
種田山頭火は幼少期に母を亡くしてから生涯を終えるまで、不幸の連続であったといわれています。
山頭火は幼少期に母が自死してからは暗い日々を過ごし、やる事すべてがうまくいきませんでした。やがては、父や兄弟、妻子とも離別してしまい、孤独と悲壮感に満ちた人生を歩んだといわれています。山頭火はそのようなどん底の人生に区切りをつけるために自殺しますが、未遂に終わり、40代に入ってから出家の道を選択しました。
しかし、年齢が行き過ぎていたために修行僧として寺に受け入れてもらえず、もはや行脚僧の道しか選択の術がありませんでした。
この句は、行脚僧として生きる道しか残されていない、自分の人生を「この道しかない」と詠んだ作品と言えます。
「この道しかない春の雪ふる」の表現技法
自由律俳句
この句は上句4音、中句7音、下句4音の15音で構成されているので、「五七五」の定型とはかけ離れています。
こちらの作品のように、俳句の定型にとらわれないで句作したものを「自由律俳句」と言います。
自由律俳句は作者が「五七五」の定型から離れて、作者が自由に思ったことを詠める技法です。「切れ字」や「擬人法」といった伝統的な俳句の技法を用いないことが一般的です。
「この道しかない春の雪ふる」の鑑賞文
この俳句を読解する際のキーポイントは「この道しかない」の部分で、2つの意味が含まれています。
一つは、旅をしていて進むべきは「この道しかない」という意味です。山頭火は旅先で道に迷ってしまい、「この道しかない」と思い進んだのでしょう。しかし、目的地に着く前に予期せずに春の雪に遭ってしまいました。降っては溶けてゆく春の雪とはなんとも儚いものであると感じたのかもしれません。
一方で、「山頭火自身の人生において、もう進む道は行脚僧として生活していくしかないという意味にも読み取ることができます。
もう自分が歩む道は行脚僧として拓鉢を持って諸国を巡るしかない…。立春を迎えて春になったというのに、冷たい雪が降っています。降ってはすぐに溶けてしまう春の雪のように、自分の人生もなんとも儚いものよと、詠まれた作品であるとも受け取れます。
どちらの意味で「この道しかない」を鑑賞したとしても、孤独感や悲壮感が感じられます。山頭火は何をやってもうまく行かない己の人生に対して、理不尽さを感じていたのでしょう。
作者「種田山頭火」の生涯を簡単にご紹介!
(種田山頭火像 出典:Wikipedia)
種田山頭火は1882年(明治15年)に、現在の山口県別府市に生まれました。
山頭火の人生は、10歳で母が自殺してから大きく狂ってしまい、波瀾万丈な人生を歩んできました。
地元にある現在の高等学校を卒業した後、上京して早稲田大学の前身である東京専門学校に進学するほど優秀な人物でした。
しかし、持病の神経衰弱によって東京専門学校を退学。地元に戻って家業を手伝いながら、俳句誌に「山頭火」という俳号で投稿を続けて、メキメキとその才能を発揮します。
その一方で、家業は経営破綻に陥り、父や兄弟、妻子と離別することになり、またもや不幸が山頭火を襲います。その後の人生も苦難続きであった山頭火は自殺を図りますが、未遂に終わり、42歳で行脚僧として諸国を巡る旅をはじめます。
山頭火は行脚僧として、旅先で見た風景や感じた心情を「自由律俳句」と呼ばれる、独特のリズムで詠みました。
山頭火自身の人生は苦難に満ちており、悲壮な人生でしたが、自由律俳句を代表する俳人としてその名を後世に残しています。
種田山頭火のそのほかの俳句
(種田山頭火生家跡 出典:Wikipedia)