【秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

秋は収穫の時期、美味しい秋の味覚といえば、みなさんはどんなものを思い浮かべますか?

 

俳句でも、たくさんの秋の味覚にまつわる句が詠まれています。

 

今回は、有名俳句の一つ「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」をご紹介します。

 

 

本記事では、「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

秋刀魚焼く 匂の底へ 日は落ちぬ

(読み方:さんまやく においのそこへ ひはおちぬ)

 

この句の作者は、「加藤楸邨(しゅうそん)」です。

 

加藤楸邨は、明治時代から平成にかけて活躍した俳人であり、国文学者です。

 

季語

この句の季語は「秋刀魚」、季節は「秋」です。

 

秋刀魚(さんま)は細長い魚で秋に脂がのり、秋の味覚を代表するもののひとつです。

 

昔から日本近海で獲れ、食卓に並んでいましたが、近年は天候や海水温度の上昇で漁獲量が減っています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「夕食にと秋刀魚を焼く煙がもうもうと立ちのぼっていて、その煙の中へ夕日が沈んでいくよう見えた」

 

という意味です。

 

「匂の底」というのは、秋刀魚を焼いている煙の香ばしい匂いと煙を表現しています。ここでは、煙の中と訳しています。

 

「秋の日はつるべ落とし」という言葉もあるように、秋は急速に日が暮れていきます。秋刀魚を焼いていると、日がすっかり暮れてしまった状況を表しています。

 

この句が詠まれた背景

 この句は1940年(昭和15年)に発表された第二句集「颱風眼」に収められています。

 

この年に楸邨は、東京文理科大学(現在の筑波大学)国文科を卒業し、再び教諭として勤めながら、10月には俳句雑誌「寒雷」を創刊します。

 

「寒雷」は、楸邨が、俳句において明るい情景だけでなく、もっと人間の生活と内面を描きたいと考えたことから、創刊されました。

 

この句も、日常の生活の1コマを切り取ったもので、楸邨が求めていた俳句のひとつとされています。

 

「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の表現技法

「日は落ちぬ」の「ぬ」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

「ぬ」は動作や作用が完了した、または実現したことを表現します。また、完了したことを強調する場合もあります。「~した」「~してしまった」という意味です。

 

「日は落ちぬ」は、「夕日がすっかりと沈んでしまった」と訳すことが出来ます。

 

また、切れ字のあるところで句が切れることを句切れといいます。この句では、三句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれるため、句切れなしとなります。

 

「秋刀魚焼く匂の底へ日は落ちぬ」の鑑賞文

 

秋刀魚を焼いている状況を詠んだ俳句は多くあります。

 

秋刀魚を、七輪の上で焼いているのでしょうか、もうもうと煙が立ち上がり、秋刀魚の焼けた香ばしい匂いが想像できます。

 

煙と匂いが充満していて、どんどんと夕日も、煙と匂いの中沈んでいってしまう、秋の日常生活の1コマが浮かんできます。

 

また、秋刀魚は、晩秋の季語です。晩秋とは、秋の終わりごろをさします。

 

季節の移り変わりを、秋刀魚を焼きながらしみじみと感じ、日が暮れてしまったことで、どことなくさみしさも感じさせる句です。

 

そして、楸邨は石田波郷や中村草田男らとともに「人間探求派」の句風と言われています。「人間探求派」は、自己の追及がそのまま俳句の追及となるよう、自己の内面を生活のうちに詠もうとすることです。

 

この句も、秋刀魚を焼いている日常生活の1コマだけでなく、楸邨が匂いと煙に沈む夕日に、何を考えていたのか、思いをはせることができます。

 

作者「加藤楸邨」の生涯を簡単にご紹介!

 

加藤楸邨は、明治38年(1905年)に現在の東京都大田区北千束に生まれました。

 

若くして父親が病気になり亡くなったため、進学をあきらめ、教員として働きはじめます。1931年に学校の同僚の誘いをきっかけに俳句を始めます。

 

近くの病院に応援診療に来ていた水原秋櫻子に出会い、師事し投句を始めます。すぐに頭角を現し、1933年には「第2回馬酔木賞」を受賞します。

 

1937年には俳句を学ぶために、教員を辞め、妻と3人の子供を連れて上京し、東京文理科大学(現在の筑波大学)国文科に入学します。中村草田男や石田波郷とともに「人間探求派」の作風と呼ばれ、「俳句のなかに人間としての生活を詠み、自己を表現する」ことを大切にしていました。

 

卒業後に俳句雑誌「寒雷」を創刊しますが、戦争が激しくなり休刊します。大空襲で財産や蔵書や原稿をほぼすべて失いますが、19468月に復刊させました。晩年は、病の療養をしながら後進の育成に努め俳句の普及に尽力しました。

 

平成5年(1993年)に88歳にて亡くなりました。

 

加藤楸邨のそのほかの俳句