【卯の花をかざしに関の晴着かな】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

俳句は、国語の授業だけでなく、趣味として幅広い年齢層に親しまれている日本文化のひとつです。

 

今回は、「卯の花をかざしに関の晴着かな」という句をご紹介します。

 


本記事では、「卯の花をかざしに関の晴着かな」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「卯の花をかざしに関の晴着かな」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

卯の花を かざしに関の 晴着かな

(読み方:うのはなを かざしにせきの はれぎかな)

 

この句の作者は、「河合曾良(かわい そら)」です。

 

 

この句は、松尾芭蕉が書いた紀行文「奥のほそ道」に収められています。

 

河合曾良は、松尾芭蕉の弟子のひとりです。「奥のほそ道」の旅に同行し、芭蕉の身の回りの世話などをしていました。

 

「奥のほそ道」には、芭蕉だけでなく曾良が詠んだ句も収められています。

 

季語

この句の季語は「卯の花」、季節は「夏」です。

 

卯の花とは、空木(うつぎ)という木に咲く白くて小さな花で、初夏に咲きます。

 

旧暦4月のことを「卯月」といいますが、この花が由来といわれています。

 

また、食べ物の「おから」の別名を「卯の花」といいます。これは卯の花の小さな白い花がたくさん集まっている様子が、おからと似ていたためだと言われています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「咲き乱れる卯の花をかざして晴着のつもりでこの関を越えよう 」

 

という意味です。

 

かざしとは、髪の飾りのことです。

 

また、晴着とは、ハレの日、つまり行事や結婚、葬式、成人など人生の重要な節目の日に着る衣服です。礼装、正装ともいいます。

 

関は、白河の関という福島県白河市にあった関所をさします。関所を通る際には、衣服を整えて越えていったと、昔から伝えられてきました。旅の服装で、整えるほどの衣装は持たないけれど、卯の花を髪にかざして晴着のつもりでこの関所を越えよう、という思いが込められています。

 

この句が詠まれた背景

1689年4月、松尾芭蕉は、弟子の河合曾良とともに旅を続けていた道中、白河の関所を通過しました。

 

関所とは、交通の要所に設けられた徴税や検問のための施設のことです。

 

白河の関所は、奈良時代に蝦夷(えぞ)からの侵入を防ぐため設けられ、みちのく(東北地方)の入り口とされており、様々な逸話や歌に詠まれています。

 

芭蕉と曾良が通ったときには、実際には新しい関と古い関の跡の2か所があり、どちらも訪れてみたようです。

 

「奥のほそ道」にはたびたび曾良の詠んだ句が出てきます。

 

芭蕉も、この白河の関で句を詠みましたが、実際に「奥のほそ道」に収めたのは、曾良の句でした。

 

「卯の花をかざしに関の晴着かな」の表現技法

「晴着かな」の「かな」の切れ字

切れ字は「や」「かな」「けり」などが代表とされ、句の切れ目を強調するときに使います。

 

俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたり、このフレーズで意味が終わりますよということを表しています。

 

この句は「晴着かな」の「かな」が切れ字にあたります。

 

また、五・七・五の最後の句に切れ字があることから、句切れなしとなります。

 

「卯の花をかざしに関の晴着かな」の鑑賞文

 

「奥のほそ道」には以下のように書かれています。

 

「卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正して、衣装を改し事など、清輔の筆にもとどめ置かれしぞ。卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良」

 

意味:卯の花に、さらに白い茨の花(野ばらの花)が咲き添っていて、雪の頃に関所を越える気持ちにさえなる。昔の人は、この関を越えるとき、冠を整えて衣装を正した、と藤原清輔も書き残しているほどだ。

 

藤原清輔は平安時代末期の歌人です。

 

「袋草紙」という著書にて・・・

 

「竹田太夫国行が白河の関を通るときに、わざわざ装束をつくろったので、どうしてそんなことをするのか、と人が尋ねたところ、能因法師があのような有名な歌を詠んだところを、どうして普段着で通ることができよう、と言った。」

 

と書いてあります。

 

※有名な歌とは【都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関…春霞とともに都を出発したが、白河の関ではもう秋風が吹いている】のこと。

 

曾良は、そうした故事にちなんで「関の晴着」という言葉を使ったとされています。

 

 

また、能因法師の歌の秋風の頃から季節はめぐり、卯の花が咲く初夏が訪れているという時の流れも表現しています。

 

風流な人々が心を留めている場所に、芭蕉と曾良も古人に思いをはせ、「せめて晴着はないけれど卯の花をかざしてみよう」という思いだったのでしょう。

 

また、白河の関は、みちのくの入り口にもあたります。

 

松島や平泉を訪ねるという旅の目的のための大事な通過点として、また、能因法師の気持ちと同じように江戸からここまでようやく辿り着いたなあと、芭蕉や曾良も考えていたのかもしれません。

 

作者「松尾芭蕉」と弟子「河合曾良」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭蕉と河合曾良 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644年伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。本名は松尾忠右衛門、のち宗房(むねふさ)といいます。

 

13歳のときに父親を亡くし、藤堂家に仕え10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし俳諧を始めました。

 

俳人として一生を過ごすことを決意した芭蕉は、28歳になる頃には北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されます。

 

若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みました。40歳を過ぎる頃には日本各地を旅するようになり、行く先々で俳句を残しています。

 

一方、河合曾良は、本名を岩波庄衛門正字(しょうえもんまさたか)といい、長野県上諏訪の出身です。江戸に出て神道を学んでいましたが、1685年頃に芭蕉に入門したとされています。

 

芭蕉は、46歳の時に曾良を伴い江戸を発ち、東北から北陸を経て美濃国大垣までを巡った旅を記しました。

 

これが紀行文『奥のほそ道』です。同行した曾良も「曾良旅日記」という記録を残していました。

 

曾良は、芭蕉とともに旅を続けてきましたが、石川県の山中という場所で消化器の調子が良くなく親戚の家に行くために旅から外れます。

 

芭蕉は「奥のほそ道」の旅から戻り、大津、京都、故郷の伊賀上野などあちこちに住みました。1694年、旅の途中大阪にて体調を崩し51歳にて死去しました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia