【水枕ガバリと寒い海がある】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

俳句は、季語を含む五・七・五の十七音という短さで表現され、世界一短い定型詩といわれます。

 

十七音の中で、季語を含め、心情や日本の豊かな風景を表現する、日本独特の表現方法です。

 

俳句は自分で作るだけでなく、詠み手の想いや詠まれた背景に思いを馳せてみることも、俳句の楽しみのひとつです。

 

今回は、有名な句の一つ「水枕ガバリと寒い海がある」という句をご紹介します。

 


 

本記事では、「水枕ガバリと寒い海がある」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「水枕ガバリと寒い海がある」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

水枕 ガバリと寒い 海がある

(読み方 みずまくら がばりとさむい うみがある)

 

この句の作者は、「西東三鬼(さいとうさんき)」です。

 

この句は第一句集『旗』に収録されています。「ガバリ」の語句がとても印象的で、現代の国語の教科書に掲載されていることも多いこの句をご存じの方も多いでしょう。

 

西東三鬼は、岡山県出身・昭和時代に活躍した俳人です。

 

西東三鬼は俳句の鬼才と呼ばれ、振興俳句の立役者として活躍しました。

 

季語

この句の季語には、二通りの解釈があります。

 

  • 季語は「寒い海」、季節は「冬」とするもの
  • 季語のない無季の俳句、超季俳句であるとするもの

 

三鬼は季語よりも詩感を優先した俳句の代表的俳人で、季語のない俳句も多く詠んでいます。

 

無季俳句(むきはいく)とは、季語を持たない俳句で、詩感を重要とするものです。季語の有無にこだわらない、超季俳句(ちょうきはいく)とも言います。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「高熱で床に伏している中、頭を動かすと水枕が「ガバリ」と重く暗い音を立てた。寒い海の音が蘇る。」

 

という意味です。

 

「水枕」の現実の音から「寒い海」が想像され、死の恐怖が襲ってくるような印象を持ちます。

 

この句が詠まれた背景

この句は昭和10年、三鬼が35歳の時に発表した句になります。

 

三鬼の代表的な作品で、西東三鬼が発表した第一句集『旗』に収録されています。

 

自中に「海に近い大森の家。肺浸潤の熱にうなされてゐた。家人や友人の憂色によって病軽からぬことを知ると、死の影が寒ざむとした海となつて迫つた。」と書かれています。

 

つまり、三鬼が急性肺結核で高熱の床に臥せっていたときのことを詠った句です。

 

「水枕ガバリと寒い海がある」の表現技法

擬態語「ガバリ」

口語表現によって、「ガバリ」というカタカナで擬態語を俳句に取り入れたことで、俳句の古い型を破り近代的な印象をつけています。

 

「ガバリ」はオノマトペの表現であり、「大量の水が勢いをつけて流れるときの音」「瞬間的に激しい動作をするさま」のことを意味します。

(※オノマトペ・・・擬音語、擬態語を合わせた言葉のこと)

 

三鬼は意図的にオノマトペを使ったことで、新興俳句をより詠み手に印象付けました。

 

句切れなし

俳句では、一句の中の意味上、リズム上の切れ目を句切れと呼びます。

 

この句は「海がある」と終ることから、途中で切れる箇所がないため「句切れなし」の句となります。

 

「水枕ガバリと寒い海がある」の鑑賞文

 

「水枕」は、ゴム製の袋に氷や水を入れ、頭を冷やすために使用する道具です。

 

現在ではあまり馴染みがないものですが、「水枕」という語句から作者が高熱で病に臥せっていることがわかります。

 

寝返りのため頭を動かしたときに、「水枕」が「ガバリ」と音を立てたのです。

 

「ガバリ」という水音から、作者は寒い死の海を連想し、死の恐怖0をありありと感じていました。「ガバリ」という音が響くことで、作者の周りの静けさ、孤独感が伝わってきます。

 

結核に侵され、死の恐怖と闘っている作者の心情を、読み手は深く印象づけられるのです。

 

「水枕」の句は、俳句を集中的に始めて2年目に作られました。三鬼の鋭い感性はこの頃既に、はっきりと目覚めていることがわかります。

 

当時世の中は戦時中で、外国から帰国した経験がある三鬼は、「寒い海」の語句に戦争前夜の暗い不安も漂わせています。

 

作者「西東三鬼」の生涯を簡単にご紹介!

 

西東三鬼は。明治33(1900)年、岡山の津山に生まれました。本名は、斎藤敬直(けいちょく)と言います。

 

三鬼が6歳の頃に父、18歳の頃に母を亡くしています。東京の青山学院中学校を卒業後、歯科医専を卒業するしました。青春時代、病気がちだった三鬼は、当時を「新進ともに虚弱。日夜放心」と記しています。

 

25歳のときに、親代わりであった長兄と共にシンガポールにわたり、ここで歯科医として開業します。この地で三鬼は、ゴルフに目覚め友人との交流をするなど、充実した日々を送りました。

 

しかし、昭和3(1928)28歳の時にチフスに罹り、計画を全て諦め日本へ帰国することになりました。

 

帰国後、三鬼は「これから先は余生である」と、昭和833歳の頃より俳句を始め、振興俳句運動に参加し活躍することとなります。俳号「三鬼」は、「サンキュー」をもじったものとされています。

 

戦時中、振興俳句は弾圧を受け、一時中断しましたが、戦後に現代俳句協会を設立。山口誓子とともに俳句の復興に力を注ぎました。「俳句の魔術師」などと呼ばれ従来の俳句には無かった、斬新な表現方法を確立しました。

 

また、三鬼は、日中戦争から昭和20年の第二次世界大戦終戦までの、戦争俳句も多く詠んでいます。内地にいて戦を想像した句を数多く詠み、戦火想望俳句を作りだしました。

 

昭和27年「断崖」を主宰。昭和37(1962年)、62歳癌のため逝去しています。岡山県の津山市にある墓には、「西東三鬼の墓」と刻まれ、「水枕」の句も記されています。

 

現在でも、三鬼の冥福を祈るために、俳句行事が行われています。

 

平成5年に、三鬼のような才能をもつ人材を発掘し、津山の俳句文化を更にすすめるため、「西東三鬼賞」が創設されました。

 

三鬼の大胆で近代的な俳句は、現代でも幅広い人気があり、その魅力を放ち続けています。

 

句集として、『旗』『夜の桃』『今日』『変身』などがあります。

 

西東三鬼のそのほかの俳句

 

  • 算術の少年しのび泣けり夏
  • 中年や遠くみのれる夜の桃
  • おそるべき君等の乳房夏来る
  • 露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
  • 枯蓮のうごくとき来てみな動く