【花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五七五というわずか17音で情景や感動をつづる「俳句」は、多くの人々に親しまれている日本の伝統的な芸能の一つです。

 

今回は、数ある名句の中から「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」という杉田久女の句をご紹介します。

 

 

本記事では、「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてくださいね。

 

「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」の季語や意味・詠まれた背景

 

花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ

(読み方:はなごろも ぬぐやまつはる ひもいろいろ)

 

この句の作者は「杉田久女(すぎた ひさじょ)」です。

 

彼女は明治生まれ、鹿児島県出身の俳人です。近代俳句において初期の頃の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られています。

 

季語

こちらの句の季語は「花衣」で、季節は「春」を表します。

 

花衣とは、花見のときに着用する衣装をいいます。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「花見から帰ってきた女性が着物を脱ぐために一本一本紐をほどき捨てていきます。こうあらためて見てみると、なんと紐の多いことか」

 

という意味になります。

 

色とりどりの紐が、一本、また一本とほどかれていく様子が女性ならではの視点で描かれています。

 

女性が着ているものを脱ぎ捨て、体を開放する様子が艶めかしく、鮮やかに思い浮かぶ一句です。

 

この句が詠まれた背景

この句は1919「杉田久女」が29歳のときに詠んだものです。俳句を詠みはじめ、わずか2年余のときの作品だといわれています。

 

「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」という句は、日本人女性がまだ着物を着ていた時代に詠まれた一句です。

 

俳句をはじめて2年余のときに作られた句ですが、この句をきっかけに高浜虚子に認められ、以降、本格的に俳句を作り始めました。

 

このとき杉田久女は29歳。「女性はこうあるべきだ」という既成概念に支配され、女性が表現者として生きるには、まだまだ難しい時代だったといわれています。

 

この句は、自分自身をきつく縛っているいろいろな紐を解き、自由にはばたく姿を想像して詠んだといわれています。

 

まさに時代を象徴した名句です。

 

「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」の表現技法

 

この句で使われている表現技法は・・・

 

  • 切れ字「や」
  • 句切れ
  • 字余り「紐いろいろ」

 

になります。

 

切れ字「や」

「切れ字」とは、感動の中心を表すために俳句ではよく用いられる技法です。代表的な「切れ字」には「や」「ぞ」「かな」「けり」などがあります。

 

この句では「ぬぐや」の「や」が切れ字にあたります。

 

実際には「ぬぐやまつはる」といった二句目の途中であることから、いわゆる「句割れ」となります。

 

花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ

 

「句割れ」は、五七五の17音のリズムを変調させる効果があり、句全体が印象的なものになります。

 

句切れ

意味や文法上、切れ目となるところを「句切れ」といいます。「句点を打つところ」と考えるとよいかもしれません。

 

この句は二句目の途中に切れ字があることから、「中間切れ」となります。

 

字余り「紐いろいろ」

俳句は、五七五の17音を基本としますが、5音が6音以上になったり、7音が8音以上になることがあります。

 

このように17音の定型から外れた句を「字余り」といいます。

 

「字余り」は、あえてリズム感を崩すことで違和感を抱かせ、読み手の心を引きつける効果があります。

 

この句は、五七五の最後の句「紐いろいろ」が6音となっているため、字余りです。

 

字余りにすることによって、着物を留めていた紐がたくさんあったことを印象づけています。

 

「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」の鑑賞文

 

「花衣」とは、当時女性が花見に出かける際に着る特別な着物のことをいいます。

 

この句は満開の桜を愛で、上気して帰ってきた夜のことを詠んだ句で、身にまとっていた花衣を一本一本紐を解きながら脱いでいく様子が、艶やかに描かれています。

 

畳の上に着物が落ち、帯が落ち、そして色とりどりの紐が落ちて行く鮮やかな情景が目に浮かぶようです。

 

しかし、一方でこの時代は女性が自由に生きることが許されなかった時代でもあります。

 

何本もの紐は、女性をがんじがらめに縛っているものの象徴だと読み取ることができます。

 

人一倍自意識の強い久女は、心身にまつわる様々な束縛を敏感に感じ取り、そこから自由になりたいと強く願っていたのではないでしょうか?

 

時代の窮屈さを着物を脱ぎ、次第に身体が開放されていくときに感じるもどかしさで表現しています。

 

作者「杉田久女」の生涯を簡単にご紹介!

杉田久女(1890年~1946年)は鹿児島県出身の俳人で、本名を杉田久(すぎたひさ)といいます。

 

 

父親の転勤に伴い、12歳になるまで沖縄県那覇市、台湾嘉義県、そして台北市と各地を転々として暮らします。

 

最初は小説家を志していた久女ですが、次兄で俳人であった赤堀月蟾の影響を受け、20代半ばで俳句をはじめます。久女は27歳のときに初めて『ホトトギス』に出句し、この頃に高浜虚子に出会います。

 

虚子への崇敬を高め、次第に頭角を現すようになりますが、『ホトトギス』主宰者であった虚子は、突然、何の説明もなく、久女を「除名」します。

 

まだまだ女性の地位が低かった時代、久女のような才能のある女性が台頭していくのは、よほど困難だったことが伺えます。

 

その後、久女は太平洋戦争後の食料難により栄養障害を起こし、1946年、栄養障害に起因した腎臓病の悪化により享年56歳で亡くなりました。

 

生前切望していた句集の出版はかなわず、長女の石昌子によって1952年に『杉田久女句集』が刊行されました。

 

杉田久女のそのほかの俳句

 

  • 足袋つぐやノラともならず教師妻
  • 紫陽花に秋冷いたる信濃かな
  • 朝顔や濁り初めたる市の空
  • 谺して山ほととぎすほしいまゝ