【荒海や佐渡に横とう天の川】俳句の季語や意味・場所(何県)・表現技法・作者など徹底解説!!

 

五・七・五のわずか十七音に、詠み手の心情や風景を詠みこむ「俳句」。

 

俳句と聞けば松尾芭蕉の句を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか?

 

芭蕉は数多くの名句を残していますが、今回はその中から【荒海や佐渡に横とう天の川】という句をご紹介します。

 


芭蕉はどのような心情でこの句を詠んだのか、また舞台となった場所はどういったところなのでしょうか?

 

本記事では、【荒海や佐渡に横とう天の川】の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「荒海や佐渡に横とう天の川」の俳句の作者や季語・意味

 

荒海や 佐渡に横とう 天の川

(読み方:あらうみや さどによこたふ<とお> あまのがわ)

 

この句の作者は「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。

 

 

芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、当時は民衆文芸だった俳諧を芸術の域にまで高め、「俳聖」とも称される人物です。

 

幽玄・閑寂を重んじ、わびやさびを詠み込む句風は「蕉風」と呼ばれ、独自の世界を開拓していきました。

 

季語

この句に含まれている季語は「天の川」で、季節は「秋」を表します。

 

天の川といえば、ご存知の通り七夕伝説の織姫と彦星を隔てている川のことです。七月七日の夜に天の川を渡り、二人は年に一度の逢瀬が許されます。

 

しかし七月七日といえば夏の時期にあたりますが、天の川がなぜ「秋」の季語になるのでしょうか?

 

これには季語が旧暦を元に分類されていることが影響しています。

 

旧暦では、一~三月が「春」、四~六月が「夏」、七~九月が「秋」、十~十二月が「冬」とされており、現在用いられている太陽暦と比べると、約一ヶ月ほどのズレが生じています。

 

したがって七夕に深いかかわりのある天の川は、「秋」の季語になるわけです。

 

また天の川は、七夕の時期に限らず北半球では一年中見ることができます。

 

その中でも最も美しくはっきりと見えるのは8月ごろであり、天文学的に見ても天の川は秋の季語がふさわしいといえます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「暗く荒れ狂う日本海のむこうには佐渡島が見える。空を仰ぎ見ると、美しい天の川が佐渡の方へと大きく横たわっている。」

 

という意味になります。

 

場所は現在の何県?

芭蕉は人生を旅そのものととらえ、晩年は弟子達と共に江戸から東北・北陸など日本各地を旅していました。

 

中でも『奥の細道』には多数の俳句が収められており、紀行文学の最高傑作とも言われています。

 

この句は「新潟県出雲崎」で詠まれたもので、奥の細道を旅する途上に立ち寄った場所でした。

 

日本海沿いにある出雲崎では、海岸から「金の島」と呼ばれた佐渡島を遠望することができます。

 

佐渡島は黄金伝説を生み、日本を支え続けた一方、古来より「罪人の島」としても知られており、かつては順徳天皇や日蓮、世阿弥など多くの流人が佐渡に幽閉されたと言われています。

 

この句が詠まれた背景

空に淡く光る天の川を背景に、夜の日本海の荒波やかすかに浮かぶ佐渡の黒々とした島影がありありと目に浮かんできます。自然の雄大さをたった十七音で見事に詠みこんでいる素晴らしい句でしょう。

 

しかし、実際に芭蕉が見た風景かどうかは定かではありません。

 

この句は元禄二年七月七日、直江津(高田)の佐藤元仙宅で催された句会での発句として吟じられたものです。

 

ところが記録によると、滞在していた地域は終日雨模様であり、夜にはいっそう風雨が激しくなったとあります。

 

つまり、芭蕉は七夕の晩に天の川を見れる状況ではありませんでした。

 

また、夏の日本海は穏やかで波も静かであったこと、天の川が最も輝くのは佐渡島と反対の方角であると研究者は唱えています。

 

このことから芭蕉は以前から作っていたものを、この七夕の夜に披露したのではないかと考えられます。

 

この句に詠まれた風景は虚構に近いものかもしれませんが、実景以上に実景らしい絵画的イメージが伝わってきます。

 

「荒海や佐渡に横とう天の川」の表現技法

「荒海や」の切れ字「や」による初句切れ

切れ字とは「かな」「けり」「や」などの語で、句の切れ目に用いられ作者の感動の中心を表します。

 

「や」は「詠嘆・感動」を意味し、最初の言葉を強調したいときに使われることが多い切れ字です。この句でも最初の五音、つまり初句で切れているので「初句切れ」となります。

 

「荒海」に「や」の切れ字が使われることで、「荒れた日本海の海であることだ・・・」と詠嘆の意味が込められています。

 

暗闇の中、波がしぶきをあげる荒々しい様子が感じられます。

 

「天の川」の体言止め

体言止めとは、文の末尾を体言(名詞・代名詞)で結ぶ表現方法です。

 

文を断ち切ることで言葉が強調され、その後に続く余情・余韻を残すことができます。

 

今回の句にも「天の川」と名詞で終わっていることから体言止めとなり、読み手にその後に続くイメージを膨らませる効果があります。

 

キラキラと白く輝く天の川が、夜の荒れた日本海の中ひときわ美しく見えてくるようです。

 

「横たふ」の擬人法

擬人法とは人間ではないものに対し、人間がしたことのように表す比喩表現のことです。

 

例えば「光が舞う」「山が笑う」などといったものがあります。

 

この句では「横たふ」という動作を「天の川」に用いることで、天の川が横たわるようにして大空にかかっている、壮大な景観を擬人法で巧みに描いています。

 

「荒海や佐渡に横とう天の川」の鑑賞文

 

【荒海や佐渡に横とう天の川】は、一見すると自然の雄大な景観を写実的に詠んだ句のように思えます。

 

しかし、残された記録を読み解いていくと、芭蕉の心象風景を表しているかのように詠むことができます。

 

佐渡島は黄金華やぐめでたい島であるにもかかわらず、人間の勝手な都合により罪人や朝廷の敵とされる人を島流しにする恐ろしい島といわれてきました。

 

悲しい歴史をもつ島を眺め、芭蕉の心の中は「荒海」が広がっていたのでしょう。「横とう」天の川が佐渡島と芭蕉を結ぶ架け橋のように詠みこまれています。

 

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終え、「銀河の序」で次のように書き残しています。

 

「打ち寄せる波の音がしばしば響いてきて、胸が締め付けられるようで、無性に悲しみがこみ上げてくるのでなかなか寝付けなかった。そこで詠んだのが「荒海や佐渡に横とう天の川」」

 

島や海、銀河といった「自然の悠久さ」と「人の運命の儚さ」を比べ深く悲しんでいることが伝わります。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉(16441694年)は伊賀国(現在の三重県)に農家の次男として生まれました。

 

本名は松尾宗房(むねふさ)で、芭蕉は俳句を作る人が名乗る名前である俳号にあたります。

 

当時の農民の暮らしでは、読み書きの手ほどきを受ける機会は少なかったそうです。

 

しかし奉公先の縁で10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし、俳諧の世界に足を踏み入れます。

 

俳人として一生を過ごすことを決意した芭蕉は、28歳になる頃には北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されます。若手俳人として頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積みました。

 

俳諧師として身を立てた芭蕉は、38歳のときに深川の「芭蕉庵」に移り住み創作活動に専念します。そこで美しい日本の風景や人間の生活の中に、古典文学の美を追求した「蕉風」という新しい俳風を確立していくのでした。

 

やがて禅僧への憧れを持っていた芭蕉は、日本各地を行脚し、巡礼しながら俳句を詠むという生き方にたどり着きました。

 

45歳の頃には、弟子の河合會良とともに、「奥の細道」の旅に出ています。約150日間をかけて東北・北陸を巡り、全行程で約2400kmもの距離を歩いたと言われています。

 

山道も多かったであろう道を、初老の男性が歩いたのだとするとよほど元気だったのでしょう。尋常ともいえる体力や、芭蕉の出身地が伊賀であることから、実は忍者だったのではないかという説まで生まれました。

 

大阪へ向かう最中に体調を崩した芭蕉は、そのまま51歳の生涯を閉じることとなります。その後、芭蕉に対する評価は確固たるものとなりました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia