江戸時代の伝説的俳人「松尾芭蕉」。
国語の教科書や、歴史の授業でも取り上げられる有名な人物です。
現代でも松尾芭蕉の俳句に親しみ、旅を愛した松尾芭蕉の足跡をたどって、芭蕉ゆかりの地を巡る方も多くいます。
松尾芭蕉は単に優れた句を残しただけなのではなく、旅をして句を詠み、旅先での出来事や思いとともに詠んだ句をまとめる紀行文を多く残しました。
今回はそんな松尾芭蕉の紀行文のひとつ、「野ざらし紀行」に所収の「山路きて何やらゆかしすみれ草」という句を紹介していきます。
山路きて何やらゆかしすみれ草 芭蕉
おはようございます。
花冷えが続いています、暖かい服装で‼︎
いい一日を♩ 4/3 (水)山道で見かけるような菫が人知れず〜 pic.twitter.com/UnBUkwqIP7
— kiko (@kikohaikuen) April 2, 2019
本記事では、「山路きて何やらゆかしすみれ草」の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者について徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「山路きて何やらゆかしすみれ草」の季語や意味・詠まれた背景
山路きて 何やらゆかし すみれ草
(読み方:やまじきて なにやらゆかし すみれぐさ)
こちらの句の作者は、「松尾芭蕉」です。
松尾芭蕉は江戸時代に活躍した俳人の一人です。
芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、当時は民衆文芸だった俳諧を芸術の域にまで高め、「俳聖」とも称される人物です。
幽玄・閑寂を重んじ、わびやさびを詠み込む句風は「蕉風」と呼ばれ、独自の世界を開拓していきました。
季語
この句の季語は「すみれ草」、春の季語です。
すみれは日本の山野に広く自生する植物で、春に紫色の花を咲かせます。
生命力が強く、コンクリートの割れ目などでも根を下ろしていることもあります。
意味
この句を現代語訳すると・・・
「山路を辿って歩いてきたら、すみれの花を見つけた。なんともいえず、そのすみれの花を慕わしいものに思ったことだ。」
という意味になります。
「ゆかし」とは、慕わしい・心惹かれる・なつかしいといったような意味です。
この句が詠まれた背景
この句は、「野ざらし紀行」という本に所収されています。
「野ざらし紀行」は、貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて松尾芭蕉が、弟子の千里(ちり)とともに旅をした時の紀行文です。
江戸から東海道を下って伊賀上野へ赴き、母の墓参をして大和国(奈良県)・近江国(滋賀県)・美濃国(岐阜県)・名古屋へも赴きます。その後、故郷である伊賀で年を越し、京都や大津を経て甲斐国(やまなし)を回って江戸へと旅をしました。
この句は「大津に出る道、山路をこへて」というメモもあり、京都の伏見から大津に行く途中の山道でのことだとわかります。
また、この句は名古屋の熱田神宮での連句の句会でかつて詠んだ「何となく何とはゆかしすみれ草」(なぜなのか、なんとなく慕わしいすみれの花がさいているよ)という発句がその原型だとされます。
(※連句とは江戸時代にはやっていた、複数の人が集まって、テーマに沿って句をつなげていく知的ゲームのようなもの。まず五・七・五の句を立て、それに続いて、七・七の句と五・七・五の句を繰り返しつなげます。発句というのは、連句の最初の五・七・五の句のことです。)
「山路きて何やらゆかしすみれ草」の表現技法
この句で使われている表現技法は・・・
- 「すみれ草」の体言止め
- 「なにやらゆかし」の二句切れ
- 「なにやらゆかしすみれ草」の倒置法
になります。
①「すみれ草」の体言止め
体言止めとは、体言、名詞で文を終わることで、印象を強める働きがあります。
結句を「すみれ草」と体言で終わることで、すみれの花に感動した作者の気持ちが読み取れます。
②「なにやらゆかし」の二句切れ
一句の中で、意味やリズムで大きく切れるところを句切れといいます。
普通の文でいえば句点「。」がつくところ、「かな」「や」「けり」など切れ字と呼ばれる詠嘆を表す言葉があるところで切れます。
この句には切れ字はありませんが、「なにやらゆかし」は「なぜだか慕わしい。」と「。(意味上の句切り)」があります。
今回の句は、二句のところで切れるため、「二句切れ」の句となります。
③「なにやらゆかしすみれ草」の倒置法
倒置法とは、普通の言葉の順序を逆にして、余韻を残したり印象付けたりする表現技法です。
「なにやらゆかしすみれ草」は、「なぜだか慕わしい。すみれ草が。」ということです。
普通の順序にすれば「すみれ草 なにやらゆかし」「すみれ草が、なぜだか慕わしい。」となります。
言葉の順序を入れ替えることで、すみれ草に感じた感動をより印象的に伝えています。
「山路きて何やらゆかしすみれ草」の鑑賞文
旅をしていて、山道を進むうちにふと目にとまったすみれ。
春らしい風情を感じます。
派手な花ではありませんが、慎ましく可憐なたたずまいに作者の旅の疲れも癒されたことでしょう。
また、すみれは春の陽だまりに咲く花です。山道の木々の切れ間のにあたる明るい太陽の光や温かさも感じられる句です。
姿は慎ましくとも、生命のエネルギーのあふれるすみれの姿に励まされて、作者はまた旅を続けたことでしょう。
「山路きて何やらゆかしすみれ草」の補足情報
去来抄での論争
この句については、芭蕉の弟子である向井去来が師や弟子の間のやり取りを書き留めた『去来抄』で論争になっています。
湖春曰く「菫は山によまず。芭蕉翁、俳諧に巧みなりといへども、歌学なきの過ちなり」
(訳:湖春が言うことには、「菫は山と共には詠まない。芭蕉翁は俳諧については巧みであるが、歌学については間違っていることがある。」)
去来曰く「山路に菫をよみたる証歌多し。湖春は地下の歌道者なり。いかでかくは難じられけん、おぼつかなし」
(訳:去来が言うことには、「山路に菫を詠んでいる証拠となる歌は多い。湖春は二流の歌学者である。どうしてそのようにとがめるのか、よくわからない。」)
ここでは山と菫を共に詠むことが、和歌を主とする歌道からするとおかしいか否かという論争になっています。
湖春の主張では、山と菫は共には詠みません。古くから菫は野と共に詠まれる伝統があるからです。
『万葉集』の山辺赤人の下記の和歌を筆頭に、多くの場合は野と菫の組みあわせで詠まれます。
「春の野に 菫摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」
(訳:春の野にすみれを摘もうとして来たわたしは、野に魅力を覚えて一夜寝てしまったことだ。)
一方の去来の反論では山と菫が共に詠まれた歌も存在するという主張ですが、こちらは数がほとんどありません。
平安末期の大江匡房の詠んだ和歌(下記)が存在しているので、詠まれなかったという反論にはなりますが多いとは言えません。
「箱根山 薄紫の つぼすみれ 二しほ三しほ たれか染めけん」
(訳:箱根山に咲く薄紫色のツボスミレは、誰が染料に二度も三度も浸して染めたのだろうか。)
芭蕉の俳句に対する姿勢
北村湖春は、俳諧の一派である貞門派である北村季吟の息子で、親子ともども幕府に歌学方として仕えています。
歌学方とは和歌や歌道に関する学問を司る職で、後に北村家の世襲になりました。
北村季吟にはかつて芭蕉も師事していたため、2人はよく見知った仲だったでしょう。
その湖春が二流の歌学者とは考えにくいので、ここはちょっとした弟子の言い争いと捉えられることが多い場面です。
また、従来の歌道に縛られないという風潮は、俳諧において蕉風が有名になる直前の談林派のスタンスでもあります。
その他にも、芭蕉の俳句には「不易流行」という考え方があります。
これは「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中に、新しく起きている変化を取り入れていく」という考え方です。
芭蕉は新しいものを取り入れることの重要性も知っていたからこそ、敢えて和歌の定番である野ではなく山とともに菫を詠んだのかもしれませんね。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉は江戸時代前期の俳諧師です。
本名を松尾宗房(まつお むねふさ)といい、寛永21年(1644年)伊賀国(現在の三重県伊賀市)に生まれました。
若い頃に仕えた主とともに、京都の北村季吟に師事しました。
その後、江戸にでて、日本橋、深川と移り住み、40代のころから旅に出て、紀行文とともにたくさんの句を残しました。その最たるものが「おくのほそ道」です。
俳諧を芸術的に完成させた人物であり、作風は「蕉風」といわれ、後世の手本ともなりました。
小林一茶や与謝蕪村とならんで江戸時代の俳人の巨匠とされ、近代以降の俳句への影響も多大です。
元禄7年(1694年)に芭蕉は亡くなります。50歳でした。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(大垣市「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)