【春風や闘志いだきて丘に立つ】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は昔から、気軽に始められる趣味の一つとして人気ですね。

 

気軽に始められることもあり、かつての作品を参考にされる方も大勢いらっしゃるかと思います。

 

そうして調べていく中で、有名な句である「春風や闘志いだきて丘に立つ」を教科書や参考書・Web上など様々なところで目にします。

 

 

そして、「この句はどんな意味で詠まれたんだろう?」という疑問をもたれる方もいらっしゃるかと思います。

 

そこで今回は、「春風や闘志いだきて丘に立つ」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきます。

 

「春風や闘志いだきて丘に立つ」の季語や意味・詠まれた背景

 

春風(はるかぜ)や 闘志(とうし)いだきて 丘に立つ

(読み方:はるかぜや とうしいだきて おかにたつ)

 

こちらの句の作者は、「高浜虚子」です。

 

高浜虚子が39歳の時に、俳壇へ復帰した際に詠んだ句です。

 

季語

こちらの句の季語は「春風」、春の季語になります。

 

季語は事象の様子が決まっていることが多いですが、この句は少し様子が違います。

 

一般的には「春風」の表現は暖かく穏やな風を表現し、「はるかぜ」と「しゅんぷう」のどちらでも読まれています。

 

しかし今回は暖かく穏やかであっても、爽やかさも兼ね備えた風を表現しています。

 

読み方は虚子の直筆文によると「はるかぜ」となっています。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると・・・

 

「春の風が吹きわたっていることよ。強い闘志をみなぎらせ、風を感じて丘の上でたたずんでいる」

 

という意味になります。

 

この句が詠まれた背景

こちらの句は、高浜虚子が39歳の時に、俳壇へ復帰した際に詠んだ句です。

 

この句を詠んだ時、虚子は遠ざかっていた俳壇へ復帰する決意を固めていました。

 

俳句をやめていたはずだったのに、なぜ復帰することにしたのでしょうか?

 

かつて正岡子規の弟子であった虚子ですが、子規の後継者としての立場を蹴り、俳句文芸誌「ホトトギス」の運営をしていました。

 

子規の没後は俳句はやめ、小説の創作に勤しんでいましたが転機を迎えます。

 

そんな最中、虚子と同じように、子規の弟子であった河東碧梧桐が新しい作風を提唱し始めました。

 

その作風は従来の五七五調や季語といった形式にとらわれない新傾向俳句と呼ばれ、虚子の作風とは正反対のものでした。

 

虚子は碧梧桐と親しかったのですが、この芸術性には相容れず猛反発しました。

 

伝統的な五七五調の季語を用いて客観写生したものが俳句だとする「守旧派」として、虚子は再出発することを決意。

 

その時に詠んだのが、「春風や闘志いだきて丘に立つ」の句になります。

 

「春風や闘志いだきて丘に立つ」の表現技法

初句切れと「丘に立つ」

この句の中で注目したいのは初句切れの使い方です。

 

初句には「春風や」の「や」という意味切れを示す、切れ字が使用されています。

 

(※切れ字・・・意味を切ることで作者の感動ポイントを示す表現技法のこと)

 

この「や」という切れ字のある作品は同時に「かな」という言葉を使う作品も多くみられます。

 

例えば、この句であれば「春風や闘志いだきて丘にたつかな」と字余りでも句切れを重視する方法です。この方法ですと、闘志を持って丘を登りきったことに対する軽い感嘆も併せて表現することができます。

 

しかし今回はそれを避け、丘に立つという表現をしています。

 

こうすることで困難に立ち向かう闘志が沸き上がっていることを強調し、闘志に焦点が合います。

 

つまり虚子は登り切った感嘆より、闘志の燃え上がりが強調されていることがわかります。

 

「春風や闘志いだきて丘に立つ」の鑑賞文

 

虚子はこの句を詠んだ時、並々ならぬ闘志が沸き上がっていたと考えられます。

 

本来の虚子の作風ならば、正岡子規から受け継いだ「写実」を重視する詠み方をします。つまり、物事をあるがままに表現し、読み手に受け取ってもらう方式を用います。

 

しかし、今回は燃えている闘志を重視し、心情を率直に表現しています。

 

普段は使わない表現からも、親友であった碧梧桐への対抗心が強く感じられます。

 

また、登り切った丘の上で闘志を抱いている表現から、これから始まる闘いへの決意表明が感じられます。

 

作者「高浜虚子」の生涯を簡単にご紹介!

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(高浜虚子 出典:Wikipedia)

 

高浜虚子(18741959年)、本名は高浜清(きよし)。愛媛県出身で、明治・大正・昭和にかけて活躍しました。

 

ペンネームの由来は本名の「きよし」からきています。

 

17歳で正岡子規の弟子になり虚子と名乗りますが、21歳の時に子規の後継者としての立場を拒否します。

 

これは子規の後継者になるという責任の重さと、少しではあるものの作風が違うことから拒んだとされています。

 

24歳で俳句文芸誌「ホトトギス」の発行人となりますが、俳句ではなく小説を執筆しました。

 

39歳の時に俳壇へ復帰し、「ホトトギス」を中心に活動し、作風でもある「客観写生」と「花鳥諷詠」を提唱しました。

 

高浜虚子のそのほかの俳句

虚子の句碑 出典:Wikipedia

 

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