【若葉して御目の雫ぬぐはばや】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

俳句は五・七・五の十七音で表現する、世界でも短い詩の1つです。季節の自然や出来事を取り入れた季語を詠み込むことによって、多彩な情景と感情を表現できます。

 

今回は、松尾芭蕉の有名な俳句の一つである「若葉して御目の雫ぬぐはばや」をご紹介します。

 

 

本記事では、「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の季語や意味・詠まれた背景・表現技法・作者について徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の作者や季語・意味・詠まれた背景

 

若葉して 御目の雫 ぬぐはばや

(読み方:わかばして おんめのしずく ぬぐわばや)

 

この句の作者は「松尾 芭蕉(まつお ばしょう)」です。

 

松尾芭蕉は和歌の余興や言葉遊びに過ぎなかった俳句の芸術性を高め、十七音という極めて短い詩である俳句を芸術として成立させた立役者です。

 

旅を好み、『野ざらし紀行』『更科紀行』『笈の小文』『おくのほそ道』と多くの紀行文を残しています。名所旧跡に芭蕉の句碑が残っていることが多いため、一度は目にした方も多いのではないでしょうか。

 

 

季語

この句の季語は「若葉」で、季節は「初夏」です。

 

若葉とは、柔らかく瑞々しい落葉樹の葉のことです。「柿若葉」などの樹の種類や、「谷若葉」などの場所を冠して詠むこともあります。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「周囲の樹々の瑞々しい若葉でもって、鑑真和上のお目の涙をそっと拭ってさしあげたい」

 

「御目の雫」の「御目」とは、鑑真和上の目のことを意味しています。

 

鑑真和上は奈良時代に来日した僧侶で、5回も渡日に失敗し、6回目で失明しながらも渡日したことで有名です。奈良の「唐招提寺」の創立者で、仏教の戒律を日本に伝えた僧侶でもあります。

 

(鑑真 出典:Wikipedia)

 

詠まれた背景

この句は、芭蕉が1688(貞享5)年48日に、奈良の唐招提寺で鑑真和上の像を見てを詠んだと言われています。

 

 

松尾芭蕉は後に『笈の小文』という紀行文にまとめられる旅の最中で、1687(貞享4)年1025日に江戸の芭蕉庵を出立し、東海道経由で熱田神宮や、故郷の伊賀上野、伊勢、吉野山、高野山などの名所旧跡を巡る旅をしていました。48日は釈迦の誕生を祝う灌仏会が行われる日のため、奈良の名寺を参拝する日に選んだのです。

 

この句には、「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拜して」という前書きが載っています。

 

6度に渡る渡日への挑戦と、その途中で失明してもなお諦めず仏教を広めた鑑真和上の姿を称えたのがこの句です。

 

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の表現技法

句切れなし

この句は最後まで「かな」などの切れ字や「けり」という言い切りの表現が入らないため、「句切れなし」の句です。

 

句切れが最初の五音にある場合は「初句切れ」、次の七音にある場合は「二句切れ」、最後の五音に切れ字や言い切りの形がある場合、もしくは言い切りなどがない場合は「句切れなし」と呼ばれます。

 

「ぬぐはばや」の「ばや」

この「ばや」は詠嘆などの切れ字ではなく、「~したいなぁ」という願望の終助詞です。

 

もともとは未然形に付く接続助詞「ば」に係助詞「や」が付いて一語化したもので、平安時代になって成立しました。同じ願望の終助詞である「なむ」が他に対する願望を表すのに対し、「ばや」は自己の願望を表しています。

 

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の鑑賞文

 

「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の句を鑑賞するには・・・

 

  • 詠まれた場所が唐招提寺であること
  • 「御目」の持ち主が鑑真和上であること
  • 鑑真和上は渡日の際に失明しているため、その像は目を閉じていること

 

を知っておく必要があります。

 

この句は多くの対比を含んでいるのが特徴です。「緑の若葉」と「透明な雫」、「初夏になり萌え出た若葉」と「閉じている目」、「生き生きとしている若葉」と「亡くなっている偉人の像」と、生と死を感じさせる対比になっています。

 

前書に鑑真和上の像を前にして詠んだとあるため、その胸の内には外の生命力に満ちあふれた新緑の世界と、遠い昔に唐招提寺で亡くなった偉人への畏敬の念がこの対比を生んでいます。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644(寛永21)年伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。名を忠右衛門、のち宗房(むねふさ)と変えています。俳号としては初めは宗房(そうぼう)を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉と改めました。

 

13歳の時に父が死去し、1662(寛文)年に伊賀国上野の侍大将・藤堂主計良忠に仕え始めます。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事したのが俳諧への道の始まりです。

 

北村季吟に師事していたときの芭蕉の句は、テンポ良い音律と奔放さを持ち、小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使う特徴があります。1674(延宝2)年、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われ、これを機に芭蕉は江戸へ向かいました。

 

俳号を「桃青」に改めた芭蕉は職業的な俳諧師である宗匠となりますが、数年で江戸の深川にある芭蕉庵へと居住を移し、「芭蕉」の俳号を使用します。今までの作風とは一転して「侘び」を重視するようになり、1684(貞享元)年の『野ざらし紀行』を始めとして旅をしながら俳句を詠むようになりました。その後、1689(元禄2)年の『おくのほそ道』の旅まで、旅から旅への生活を送っています。

 

1694(元禄7)年まで紀行文や俳句を整理し編集、出版していましたが、1012日に亡くなりました。この際の絶筆の句が、有名な「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」です。芭蕉は最後までこの句の推敲をしていたとされるほど、俳諧に捧げた生涯でした。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia