【うつくしや障子の穴の天の川】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞文・作者など徹底解説!!

 

五・七・五の十七音で、作者の心情や見た景色を綴り詠む「俳句」。

 

季語を使って表現される俳句は、たった十七音の言葉で、作者の心情やその思いに触れることができます。

 

今回は、小林一茶の有名な句の一つうつくしや障子の穴の天の川という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「うつくしや障子の穴の天の川」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「うつくしや障子の穴の天の川」の俳句の季語や意味・詠まれた背景

 

うつくしや 障子の穴の 天の川

(読み方:うつくしや しょうじのあなの あまのがわ

 

この句の作者は、「小林一茶(こばやしいっさ)」です。

 

小林一茶は江戸時代後期の俳人で、松尾芭蕉や与謝蕪村とともに有名な江戸時代の俳諧師です。人間味に満ちた句が多く、庶民や子ども、小動物までもを見つめる俳句を詠みました。

 

 

季語

この句の季語は「天の川」、季節は「秋」です。

 

「天の川」は、初秋の澄み渡った夜空に、帯状に煌めく無数の星のことです。

 

一般的には、七夕の夜に彦星と織姫が渡る川のことを「天の川」といいます。

 

意味

こちらの句を現代語訳すると…

 

「七夕の今宵、病気で寝ている部屋の、障子の破れた穴からのぞき見える天の川は、なんと美しいことか。」

 

という意味です。

 

作者である小林一茶は病状がよくなく、部屋で横になり過ごしていました。

 

七夕のその夜、横になっている部屋の障子の穴から、織姫と彦星が今宵渡るであろう天の川が見えることに気づきました。

 

その美しさは療養している作者にとって、とても感動的なものだったと思われます。病床に伏せていた七夕の夜に、部屋の中から天の川を見つけた感動をこの句に込めて詠んだのでしょう。

 

この句が詠まれた背景

文化十年(1813年)ごろ、一茶が50歳の頃に詠まれたとされています。

 

この句は、一茶が48歳から56歳までの句をまとめた「七番日記」に収められています。

 

一茶は病気のため75日間、善光寺門前の門人宅で療養していました。病気で伏していた七夕の夜、障子の穴の向こう側に天の川が見えることに気づき、その美しさを詠みました。

 

「うつくしや障子の穴の天の川」の表現技法

「うつくしや」の切れ字

切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使います。

 

この句は「うつくしや」の「や」が切れ字にあたります。

 

俳句の切れは、文章だと句読点で句切りのつく部分にあたります。

 

「や」で句の切れ目を表すことで、障子の穴から見える天の川をしみじみ感じている様子がよりよく伝わります。

 

また、五・七・五の五の句、一句目に切れ目があることから、「初句切れ」となります。

 

「天の川」の体言止め

体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める表現技法です。

 

体言止めを使うことで、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。

 

「天の川」と言い切ることで、いま目にしている天の川の美しさを強調して表しています。

 

「うつくしや障子の穴の天の川」の鑑賞文

 

一茶は病状がかなり悪く75日もの間、病床に伏していました。そんな状態の中で七夕の夜、障子の穴から見える天の川を見つけました。

 

そして、日常の中で見つけた天の川の美しさと感動をこの句に詠みました。

 

なかなか病状が改善せず、ずっと横になったままで見つけた天の川はとても感動的で、思わず「うつくしや」という言葉が出たのではないでしょうか。

 

 

障子に穴があいたままになっているということは、直せずにいる「貧しさ」も表しているように思えます。直せずにいる障子の穴から天の川が見えたという一茶の独特の視点に驚きます。

 

その日見えた天の川が、病床の一茶に少しの明るさと希望を与えたように感じられます。

 

作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!

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(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)

 

小林一茶は本名を小林弥太郎(こばやしやたろう)といい、宝暦13年(1763年)信濃柏原村、現在の長野県信濃町の農家に生まれました。

 

3歳の時に母と死別したため、しばらくは祖母に育てられました。その後、8歳の時に父が再婚し、継母に育てられましたが、継母との関係は不仲でした。

 

14歳の時に祖母を亡くし、ますます継母との関係が悪化したため、父の勧めで15歳の春、奉公のため江戸に向かい、江戸で俳諧に出会いました。

 

それから25歳頃までの10年くらい記録はほとんど残っていません。

 

その後、江戸を拠点とし、一茶はいろいろな場所を放浪し、俳諧修行に励みました。いろいろなところへ俳諧行脚することで生計を立てていましたが、なかなか生活は安定せず、貧しい暮らしをしました。

 

39歳の頃に実家へ戻り、父親が亡くなった後、異母兄弟との間で遺産をめぐる争いが長く続きました。

 

52歳の時に初めて結婚します。一茶は生涯で3度結婚し、5人の子どもを授かりました。特に初めての結婚では、4人の子どもを授かりましたが、いずれも病弱だったため幼い頃に亡くし、妻をも亡くしています。家族を何度も亡くすという辛い経験をした上に、一茶自身も、何度も病気を患い、その後遺症で言語障害や半身不随になるなどしました。

 

晩年は、脳卒中を患ったことによる半身不随でなかなか自由の効かない身体になっていました。

 

文政10(1827)56歳の時に自宅が火事に見舞われるという災難があり、焼け残った土蔵で暮らしていましたが、急に具合が悪くなり、亡くなりました。

 

一茶は、俗語や方言なども使い、自由で率直な人間味のあふれる心情を俳句で表現しました。主観的、個性的な作風で、庶民的な生活を詠んだ句が多いのも特徴です。

 

幼い頃からずっと家庭にはなかなか恵まれず孤独な思いもしてきたように感じられますが、俳句の才能に溢れ、生涯で2万句も詠んだと言われています。

 

小林一茶のそのほかの俳句

一茶家の土蔵 出典:Wikipedia