「わずか17音の芸術」といわれている俳句。
五七五で綴られる短い詩は日本特有の文芸であり、世界中から高く評価されています。
今回は数ある名句の中から「面八句を庵の柱に懸け置く」という松尾芭蕉の残した文章を紹介します。
面八句を庵の柱に懸け置く
アン pic.twitter.com/UZki9dzDgd— y u r i k a (@yurika_829) August 5, 2016
本記事では、「面八句を庵の柱に懸け置く」の季語や意味・鑑賞文などについて徹底解説していきます。
ぜひ参考にしてみてください。
目次
「面八句を庵の柱に懸け置く」の作者や季語・意味・詠まれた背景
面八句を庵の柱に懸け置く
(読み方:おもてはちくをいほりのはしらにかけおく)
この文章の作者は「松尾芭蕉」です。
芭蕉著作の『おくのほそ道』の冒頭で書かれている文章になります。
「旅人でありたい」と願う芭蕉は、自らが住んでいた「芭蕉庵(ばしょうあん)」を人に譲ってしまいますが、その際、家の柱にかけておいたのが「草の戸も…」からはじまる句を記した「面八句」です。
季語
こちらの句に季語はありません。
この文章が登場する『おくのほそ道』は、文章と俳句が交互に書かれている著作です。
実はこの文章の前に書かれている「草の戸も住み替はる代ぞひなの家」が俳句に当たり、「面八句を庵の柱に懸け置く」については、五七五で書かれてはいますが、その後に続く文章であると理解されています。
意味
「面八句」とは連句の初面(しょおもて)の八句(はちく)を意味します。
この場合、初表八句を芭蕉が独吟し、その懐紙を芭蕉庵の柱に残し置いたというニュアンスの文章になります。
(※懐紙…和紙を二つ折りにしたもので、古来和歌や俳諧を詠む際に使われた紙のこと)
✔ 【補足情報】Check!!
「面八句」とは「百韻連歌」という形式の連歌の最初の八句です。百韻連歌とは最初の人が「五七五」と詠んだ後に「七七」と繋げ、更に「五七五」で繋げていく遊びで、100句続けます。百韻連歌の場合は懐紙を折って「一の折」「二の折」「三の折」「名残の折」の4つのパートに分かれます。面八句とはこの最初の一の折の表面に書かれる八句を示しています。
「面八句を庵の柱に懸け置く」が詠まれた背景
『おくのほそ道』は、冒頭「月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。」で始まります。
「月日」をはじめ、「年」も「船頭」も「馬子」もみな旅人であると捉え、芭蕉が尊敬する昔の詩人たち(李白・杜甫・宗祇・西行)はみな旅人であり、旅の途中で死んでいったことを懐古する文章で始まります。
自分もそんな旅人でありたいと願う芭蕉は、今後の旅のことを思い、いてもたってもいられなくなり、旅の準備の一環として長年住んでいた「芭蕉庵」を人に譲ることに決めます。
ここに確かに自分がいたのだということを残し、門出の記念のために、面八句を柱に懸けおいたといわれています。
✔ 【補足情報】Check!!
ちなみに、芭蕉は『おくのほそ道』の最初の旅立ちの場面で、下記のように旅に出たくてたまらない様子を書き立てています。
「春立てる霞の空に、白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取る物手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、」
(意味:春の霞の空を見ると、白河の関を越えようという思いがそぞろ神が身辺にとりついたように心を浮き立たせ、道祖神が旅へ招く様子に、取るものも手に付かない有りさまで、股引の破れをつづり、笠の緒を付け替え、足によいという三里へのお灸も据えていると、松島の月が心にかかってくるのだった。)
白河の関、松島と有名な歌枕や名所を挙げているため、どのような場所を旅したいかがよく分かる冒頭部分です。
「面八句を庵の柱に懸け置く」の鑑賞文
旅から戻ったばかりの芭蕉ですが、もう次の旅のことを考えています。
自分が尊敬してやまない昔の詩人たちもみな旅人であったことに想いを馳せ、いつか自分も旅の途中で死んでいきたい…そんなことを考えているうちに、居ても立っても居られなくなり、芭蕉庵を手放すことを思い立ちます。
しかし、ただ手放すのでは、ちょっと淋しい…。確かにここに自分がいたという証を残したい、そう思って自らが独吟した初表八句を柱に懸けおいたといわれています。
「この旅が自分の最後の旅になるかもしれない」そんな思いが込められた一句です。
面八句を掛けた後の芭蕉の旅
芭蕉は面八句を掛けた後、「弥生も末の七日」、つまり旧暦3月27日に出立しています。
深川から『おくのほそ道』の旅に出た芭蕉と同行者の河合曾良は、隅田川を船で遡って千住宿、現在の千住大橋の付近に上陸しました。
千住までは別れを惜しむ人たちも船に共に乗っていたようで、最後の別れとして詠まれたのが「行く春や 鳥啼き魚の 目には泪(なみだ)」という句です。
この後の旅の行程は埼玉県の草加、春日部と宿泊した後に日光東照宮に参拝し、栃木県の那須を経由して、旅立ちの時に心を踊らせた福島県にある白河の関に到着します。
さらに宮城県の仙台、松島と名所を旅した後に有名な句が多数残されている岩手県の平泉に到着し、山を越えて山形県から日本海側を通り、岐阜県の大垣で『おくのほそ道』の旅を終えるのです。
『おくのほそ道』の最後の句である「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」という句は9月6日に詠まれたとされており、旧暦3月27日から9月6日までの実に5ヶ月半の旅でした。
『おくのほそ道』は「行く春」を惜しみながら出発し、到着の喜びもつかの間で再び伊勢神宮への旅をするために出発する「行く秋」で終わっています。
『おくのほそ道』はその旅路を辿る人もいるほど、現在でも多くの人に愛されている紀行集を兼ねた句集です。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉(1644年~1694年)は江戸時代前期の俳諧師で、三重県上野市(現在の伊賀市)に生まれました。芭蕉は俳号であり、本名は松尾宗房といいます。
芭蕉は俳諧(連句)を芸術的な域に高めた人物であり、芸術性が極めて高い「蕉風」と呼ばれる句風を確立しました。
後の小林一茶、与謝蕪村に多大なる影響を及ぼしたといわれています。
芭蕉は貧しい農家に生まれ(平氏の血筋であったとも言われますが、決して裕福な家庭ではありませんでした)、幼くして伊賀国上野の武士、藤堂良忠に仕えます。
主君の良忠とともに京都の国学者北村季吟に師事し、俳諧を詠むようになったことが転機となり、良忠の亡き後は、芭蕉は江戸へ出て、俳諧師としての人生を歩むようになります。
40代に入ると自らが尊敬してやまない昔の詩人たちと同じように旅に出ることを心に決めます。
江戸から伊賀への旅をまとめた『のざらし紀行』、江戸から伊賀さらには西の兵庫までの旅まとめた『笈の小文』などの紀行文を著し、そのスタイルは徐々に洗練されていきます。
そして芭蕉の俳諧紀行文の最たるものが、今回の「面八句を庵の柱に懸け置く」が記されている『おくのほそ道』なのです。
晩年旅に生きた芭蕉は1694年(元禄7年)に享年50歳で大阪の地で客死したといわれています。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)