今回は、ある秋の日の一コマを詠んだ句「ほろほろとむかご落ちけり秋の雨」をご紹介します。
<ほろほろとむかご落ちけり秋の雨> 一茶 pic.twitter.com/SLUZVaMwqX
— ひねもす (@hinemos_amo2) October 15, 2017
本記事では、「ほろほろとむかご落ちけり秋の雨」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてください。
目次
「ほろほろとむかご落ちけり秋の雨」の俳句の季語・意味・詠まれた背景
ほろほろとむかご落ちけり秋の雨
(読み方: ほろほろと むかごおちけり あきのあめ)
この俳句の作者は「小林一茶(こばやし いっさ)」です。
一茶は江戸時代後期に活躍した俳人で、松尾芭蕉や与謝蕪村とともに「江戸三代俳人」のひとりです。伝統俳句の難しい表現や技法を使わずに、分かりやすい表現方法で文章を作る「一茶調」を確立しました。
今回の句は、秋の長雨がシトシト降り続いている風景を詠んだ作品です。
季語
この句では下句「秋の雨」が季語となっており、季節は「秋」です。
「秋の雨」は、残暑の暑さを和らげる雨、台風による強雨、晩秋に降る雨など、さまざまな意味に取れる季語です。
今回は、雨によってむかごがほろほろと落ちていく様子を詠んでいるので、「秋の雨=秋の長雨」であると判断できます。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「秋に入り雨が続いているので、むかごがほろほろと落ちてしまったことよ。」
という意味です。
せっかく実ったむかごが、雨にあたって落ちていく様子が詠まれています。
むかごとは山芋や自然薯などの茎上になる茶色小さな実のこと。主に、ご飯に混ぜて炊いたり、塩茹でにしていただきます。
(画像:むかごご飯)
この句が詠まれた時代背景
この句は「文化句帖(ぶんかくちょう)」に記載されており、詠まれた年代は文化2年(1805年)。小林一茶が42歳の時に詠まれた作品です。
一茶が俳人として活躍していた江戸時代は、句作のために諸国を旅する習わしが定着していました。一茶も他の俳人達と同じように、東から西まで日本の各地を周遊して、俳句修行をしていたと言われています。
詳しいことは不明ですが、40代に突入する少し前に、房総地域で俳諧修行をしており、各地で出会った方達に俳句を教えて生計を立てていました。
そのため、42歳の頃はまだ俳句の修行に勤しみ技術を磨いていたのかもしれません。
また、当時は俳句の派閥を超えてさまざまな俳人達と交流を深めていた時代です。そのような影響もあり、一茶は40代で「一茶調」と呼ばれる独自の句風を生み出して、俳句をさらに多くの人たちに浸透させていました。
「ほろほろとむかご落ちけり秋の雨」の表現技法
擬態語
擬態語とは「ざあざあ」「フワフワ」のように、事物の状態や身ぶりなどの感じをいかにもそれらしく音声にたとえて表した言葉のことです。
この句では上句「ほろほろ」に擬態語が使用されています。 「ほろほろ」と表現することで、むかごが木から落ちていく様子を「写実的」に表しています。
一般的に、木の実が落下する様子を表現する時には、「ぽろぽろ」という言葉が使用されます。しかし、「ほろほろ」と「ぼろぽろ」を比較してみると、両者の違いは明らかです。
「ぽろぽろ」ですと、むかごが連続して落ちていくように感じられるため、土砂降りの雨が降っている様子を連想します。一方、「ほろほろ」は、間隔をおいてむかごが落ちていく様子を表現できるため、時間がゆっくりと流れているように感じられるでしょう。
切れ字「けり」
切れ字は主に「や」「かな」「けり」などがあり、句の切れ目を強調するときや、作者が感動を表すときに使われます。
この句は中句「むかご落ちけり」の『けり』の部分に切れ字が使用されています。「せっかく実ったむかごが落ちてしまったなぁ」と一茶が嘆いている様子を表しています。(二句切れの句)
体言止め
体言止めとは文末を名詞で括る表現技法で、文章にリズムを整える効果があります。
この句では下句「秋の雨」の部分に、体言止めが使用されています。あえて文末に名詞を設定することで、歯切れが良くなり、読み手の共感を得やすくさせています。
「ほろほろとむかご落ちけり秋の雨」の鑑賞文
「むかご」は、秋も深くなるとちょっと触れただけでも、ほろほろとこぼれ落ちます。
この句は秋雨の降るにつれて、そのほろほろ落ちる「さびしい静かな光景」を写生した客観句です。
一茶は秋に入り、たわわに実ったむかごを収穫することを楽しみにしていたのでしょう。しかし、いつ止むともわからない秋の長雨のせいで、ほろほろと実が落ちてしまいます。
作者はせっかく実ったむかごが、雨のせいで次々に落ちてしまうと嘆いているのかもしれません。
一茶の作品はこの句のように何気ないシーンを題材にしたものが多く、俳句を習い始めた方たちが親しみやすい作品となっています。
作者「小林一茶」の生涯を簡単にご紹介!
(小林一茶の肖像 出典:Wikipedia)
小林一茶は1763年(宝暦13年)に、長野県信濃町のなかでも裕福であった農家に生まれました。
経済的に恵まれて幼少期を過ごしますが、家庭運には恵まれておらず、幼い頃に大切な母と祖母を失ってしまいました。
母が亡くなったあと、父は再婚しますが、義母とそりの合わなかった一茶は15歳の時に、江戸に奉公に出ます。しかし、不運にも思われるこの生い立ちが、一茶が俳人として後世にその名を残すきっかけになったのです。
その後、俳人であった奉公先の主君に指示して、句作に励みます。27歳から東国を、30歳からは西国を旅して、さまざまな風景や文化に触れながら俳人として実力を付けて行きました。
40代には伝統俳句の難しい格式を取っ払い、シンプルに文章を表現する「一茶調」を確立。しかし、順調な人生は長くは続かず、江戸では俳人として生計を立てるのが難しくなります。
そのため、一時的に故郷に戻って俳句の師匠として弟子の指南にあたり、生計を築いていたそうです。
また、難航していた義母との相続争いにも決着がつき、51歳で妻を迎えて子宝にも恵まれました。しかし、ここでもまた不運が一茶を襲い、流行病で妻子を失ってしまいます。さらに、三度目の結婚にして、ようやく家庭運に恵まれますが、柏原の大火によって家を失ってしまいました。
結局、生涯を通して波瀾万丈な一茶でしたが、「一茶調」と「芭蕉俳諧」の2つの句風の確立にたずさわっており、俳人としては大きな功績を残しています。
小林一茶のそのほかの俳句
(一茶家の土蔵 出典:Wikipedia)