【枝豆や三寸飛んで口に入る】俳句の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

「俳句」とは、五七五の317音を定型とする短い詩です。

 

日本が誇る伝統芸能の一つですが、昨今は外国語で詠まれるなど、欧米、アジア諸国など日本以外の国々でも人気があります。

 

今回は、数ある名句の中から正岡子規の作「枝豆や三寸飛んで口に入る」という句をご紹介します。

 

 

本記事では、「枝豆や三寸飛んで口に入る」の季語や意味・表現技法・鑑賞・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。

 

「枝豆や三寸飛んで口に入る」の季語や意味・詠まれた背景

 

枝豆や 三寸飛んで 口に入る

(読み方:えだまめや さんずんとんで くちにいる)

 

この句の作者は、「正岡子規」です。

 

短歌や俳句の世界では必ず名前が出てくる正岡子規。歌人や俳人としてだけでなく、明治文壇に多大な影響を及ぼした文学者の一人としても知られています。

 

しかし、その生涯はとても短く、わずか35歳でこの世を去りました。

 

この句は子規が亡くなる一年前の1901年(明治34年)9月に詠まれた句になります。

 

季語

こちらの句の季語は「枝豆」で、季節は「秋」を表します。

 

最近は、春頃から当たり前のように枝豆は店頭にあり、冷凍ならば一年中…。しかし、枝豆の本当の旬は立秋過ぎた頃です!

 

ちょうど旧暦お盆の頃で、暦の上では秋ですので、枝豆は秋の季語になります。

 

意味

この句の現代語訳は・・・

 

「茹でた枝豆の莢を押したところ、枝豆は三寸ばかり宙を飛び、勢いよく口の中に飛び込んできたよ」

 

といった意味になります。

 

この句を詠んだ9月は枝豆がちょうど旬の時期です。身近な枝豆を句材に秋を実感している句になります。

 

この句が詠まれた背景

子規の生涯はとても短く、わずか35歳でこの世を去ります。

 

この句は正岡子規が亡くなる一年前の9月に詠んだもので、旬の枝豆を食べる様子がユーモアを交えて表現されています。

 

病気のため30歳頃からほぼ寝たきりの状態であった子規は、眼の前の事柄をありのままに言葉にし、詠んでいたことが予想されます。

 

病床にいるうっ憤を、句を作ることで気を紛らわせようとしていたのかもしれません。

 

「枝豆や三寸飛んで口に入る」の表現技法

切れ字「や」(初句切れ)

「切れ字」は俳句でよく使われる技法で、感動の中心を表します。代表的な「切れ字」には、「かな」「けり」「や」などがあり、意味としてはいずれも「…だなぁ(感嘆)」というように訳されることが多いです。

 

この句は「枝豆や」の「や」が切れ字に当たります。

 

秋が旬の枝豆を口に頬張るときのことを枝豆に焦点を当てて表現しています。

 

また、この句は上五「枝豆や」に切れ字「や」がついていることから、「初句切れ」の句となります。

 

「枝豆や三寸飛んで口に入る」の鑑賞文

 

現代の私たちにとっても身近な食材、枝豆。

 

120年近くも昔、子規も同じように枝豆を見て、「枝豆や三寸飛んで口に入る」と詠んだのです。

 

茹でた枝豆が勢いよく(三寸)飛んで口の中に飛んでくる味覚と視覚の両方を楽しませてくれるユーモアのある一句です。

 

食いしん坊だったといわれている子規の性格がよく表れています。

 

しかし、この句をよんだのは、亡くなる一年前です。ぽんぽん弾ける枝豆の姿に元気をもらったのかもしれません。

 

作者「正岡子規」の生涯を簡単にご紹介!

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(正岡子規 出典:Wikipedia)

 

正岡子規(1867年~1902年)は、本名を常規(つねのり)といい、松山藩(今の愛媛県)の下級藩士の長男として生まれました。

 

幼い頃から身体が弱く、性格も内向的。いじめられっ子だったといわれています。

 

そんな子規ですが、少年時代には漢詩や小説に親しみ、松山は俳句が盛んな土地であったこともあり、同世代の河東碧梧桐、高浜虚子、寒川鼠骨とは、この頃から親交がありました。

 

1883年、16歳のときに上京し、東大予備門に入学します。そこで後に親友となる夏目漱石と出会います。

 

子規は大学を中退しますが、日刊新聞『日本』や、その姉妹紙である『小日本』などで俳句や短歌を中心に文学活動を始めます。

 

1895年に開戦した日清戦争では従軍記者として遼東半島に渡ったものの、喀血。帰りの船旅で再び喀血したことで入院を余儀なくされました。「子規」という俳号の由来は、「ホトトギスが血を吐くまで泣き続ける」といわれていることに自分をなぞらえたことにあるそうです。

 

30代の頃から晩年まで、ほぼ寝たきりの状態であった子規は、35歳という若さでこの世を去りました。

 

死の2日前まで作品を書き続けていたといわれている子規の作品は、病床にあるからといって陰惨さは全く感じられず、むしろユーモアにあふれているものが多く残されています。

 

正岡子規のそのほかの俳句

(前列右が正岡子規 出典:Wikipedia)