【秋深き隣は何をする人ぞ】俳句の季語や意味・場所(何県)・表現技法・作者など徹底解説!!

 

自分が見たこと、感じたことを五・七・五のリズムに乗せて詠みあげる「俳句」。

 

昔から多くの日本人に親しまれてきた文学の一つです。

 

そんな俳句の中でも知らない人はいないほど有名な江戸時代の俳人・松尾芭蕉。

 

今回はそんな芭蕉の晩年の句の一つである「秋深き隣は何をする人ぞ」という句を紹介していきます。

 

 

本記事では、「秋深き隣は何をする人ぞ」の季語や意味・俳句が詠まれた背景など徹底解説をしていきます。

 

俳句仙人

ぜひ参考にしてみてください。

 

「秋深き隣は何をする人ぞ」の季語や意味・詠まれた背景

 

秋深き 隣は何を する人ぞ

(読み方:あきふかき となりはなにを するひとぞ)

 

この句の作者は「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。

 

松尾芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳人です。当時は言葉遊びのような滑稽さが中心だった俳諧を、芸術にまで高め「俳聖」とも称されるほどの人物でした。

 

 

季語

この句の季語は、「秋深き」(秋深し)で、季節は晩秋です。

 

「秋の深まるころ」は、晩秋(10月頃)を指します。

 

台風が過ぎて秋雨もひと段落するとやがて空が高くなり、木々は赤や黄色に彩られていきます。

 

実りの秋という言葉もある通り、収穫も多くなる季節である一方、冬に向かい何となくもの淋しさの漂う季節でもあります。

 

「秋深き」(秋深し)とは、喪失感・孤独感・虚無感などの心理的な気持ちが漂うときの表現であり、またそのような時に用いる季語です。

 

意味

この句を現代語訳すると・・・

 

「秋も深まり、隣のひとは、何をしているのだろうか。」

 

という意味になります。

 

「何をする人ぞ」とは、直訳すると「どんな職業にたずさわっている人か」となりますが、ここでは別に職業を詮索しているわけではありません。

 

秋が一層深まってきて一人寂しさも感じられる中、かすかにきこえてくる物音に隣の人は何をする人であろうかと、人懐かしい感じがします。

 

たまたま縁あって今隣に居るけれど、こうして秋はゆっくりと暮れていってしまうのでしょうか。人生もまた、こうして静かに暮れていくのでしょう。

 

このような芭蕉の思いが、この句全体の意味として含まれているといえます。

 

この句が詠まれた背景

この句は、1694年9月28日に芭蕉が大坂の知人宅にいた際、体調を崩してしまい臥せっていたときに詠んだ句とされています。

 

本当であれば、芭蕉のために開催された句会がありましたが、芭蕉は病で出席することが叶わない状況でした。

 

そのため、その思い(俳句)を主催者である芝柏(しはく)へ託し、芭蕉不在の中行なわれた句会において芭蕉の「秋深き隣は何をするひとぞ」の句が詠み上げられました。

 

この句が詠まれた翌日、芭蕉は激しい下痢に見舞われ床に臥し身動きが取れない状態まで体調は悪化していました。(※そのため、こちらの句は芭蕉が起きて創作した最後の作品として知られています)

 

そしてこの句を詠んだ半月後、芭蕉は51歳の歳で亡くなりました。

 

「秋深き隣は何をする人ぞ」の表現技法


 

「秋深き隣は何をする人ぞ」の「深き」のあとには本来、名詞がくるはずがこの句には名詞がありません。

 

本来であれば、「深し」が正しいはずですが、敢えて「深き」にしたということは、芭蕉にとって、何らかのこだわりがあったはずです。

 

「深き」より「深し」の方が、より強い余韻が残ることには間違いないでしょう。

 

また、「秋」「深き」のカ行音を連続させることにより、秋の乾燥したようなより強い音になっています。

 

「秋深き隣は何をする人ぞ」の鑑賞文

 

この句は用いられている語句がすべて平易であり、だからこそ何を言わんとしているのか、解釈が難しいと言えます。

 

芭蕉がこの句を詠んだ時の状況を考えると、まずは芝柏への挨拶が主題であると言えるでしょう。

 

「隣」とは芝柏亭のことを指しています。

 

また、「何をするひとぞ」とは、「どういう人なのだろう」と知りたがっていることを表していて「それぞれ孤独でありながらも、その孤独さを通してつながり合うことで生まれる連帯意識がある」と、芭蕉の心の奥の言葉であると解釈することもできます。

 

いずれにしても、これという明確な答えはありません。

 

しかしながら、芭蕉の人懐かしいという内省的な心の叫びと同時に、芝柏へ呼びかけているといった二重とも解釈できる、そういった句ではないでしょうか。

 

「秋深き隣は何をする人ぞ」の補足情報

「平生即ち辞世なり」の精神

「辞世の句」とは、文字通り死ぬ前に「辞世の句である」と伝えられて詠まれた和歌や俳句です。

 

芭蕉の辞世の句として有名なのが、「秋深き」の句の次に詠まれた「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」でしょう。

 

 

これは元禄7108日に弟子に書かせたもので、実際に逝去したのはその4日後です。

 

「病中吟」と記されていることに加えて・・・

 

「又いにしへより辞世を残す事は、誰々も有事なれば、翁にも残し給べけれど、平生則ち辞世なり、何事ぞ此節にあらんやとて、臨終の折一句なし」

(訳:また、昔から辞世の句を残すことは、誰でもあることだから、芭蕉翁も残されていそうだが、毎日の句がすなわち辞世の句である、この時だからと詠む必要は無いとして、臨終の時にも一句も詠まなかった。)

 

と弟子の路通が『芭蕉翁行状記』に記しています。

 

そのことから、「秋深き」の句も「旅に病んで」の句も、芭蕉からしたら「平生」の句であり「辞世」の句でもあったのでしょう。

 

一方で、「絶筆」という言葉を聞いたことがある人もいるのではないでしょうか。

 

「絶筆」とは、その人が生前最後に書いた文章や手跡のことです。「旅に病んで」の句は、床に伏したまま弟子に書かせています。

 

対する「秋深き」の句は「句会に送った」とあるため起きて自らの手で書いていると考えられるので、芭蕉の絶筆の句と言えば「秋深き」の句であると考える人もいます。

 

芭蕉はどんな病気だったのか

 

芭蕉は、この句を最後に起き上がることすらできなくなってしまいましたが、どのような病気だったのでしょうか。

 

芭蕉は若い頃から「疝気(せんき)」という胃腸の病気を患い、腹痛や下血などを訴えた手紙を多く残していました。

 

『おくのほそ道』の旅に出る前にも、足腰と胃腸を強くするという「足三里」のツボにお灸を据え、薬を持ち歩くほどだったといいます。

 

芭蕉が患っていた病気は色々推測されていますが、長期に渡る疾患から「潰瘍性大腸炎」だったのではないかと言われています。

 

腹痛や下血を伴う病気で、現在でも指定難病とされているため、江戸時代では寛解は難しかったことでしょう。

 

しかし、直接の死因となったのは潰瘍性大腸炎ではなく、ストレスから感染症にかかったことと考えられています。亡くなる一か月前の症状は悪寒や発熱で、胃腸の症状ではありませんでした。

 

これらの症状についても学説があり、それによると芭蕉は、最期の旅に出る1年前に結核にかかった甥を看病しています。

 

この時に結核に感染し、潰瘍性大腸炎の悪化に伴う合併症として結核を発症したと考える医師もいるのです。

 

また、潰瘍性大腸炎はストレスにより悪化します。「秋深き」の句を詠んだ翌日から下痢が続き容態が急変して身体を起こせなくなったことから、弟子同士の争いによるストレスで潰瘍性大腸炎も悪化した結果と考えられています。

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!

(松尾芭蕉 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は、寛永二十一年(1644)、伊賀・上野の松尾与左衛門の次男として生まれました。

 

実家は松尾姓を持つことより、伊賀(現在の三重県)の土豪の末裔といわれています。

 

芭蕉が13歳の時、父親が亡くなり、兄である命清(のりきよ)が家督を継ぎました。両親の死後は、この兄が戸主として芭蕉の面倒をみてくれたといわれています。

 

また、松尾という苗字を持ってはいましたが、家の格は高くはなかったため、実質的には農民に近い生活をしていたようです。

 

やがて芭蕉が10代の終わり頃、藤堂家へ仕えることとなりました。その後、俳諧の道に入ることとなります。

 

生涯を通して日本各地を旅して「おくのほそ道」などの旅行記を生み出し、51歳で亡くなるまで詠んだ句は、およそ1000句弱といわれています。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia