
みなさんは、秋がくると思い浮かぶ俳句はありますか?
春夏秋冬、それぞれの季節で、趣のある素敵な句がたくさんあるかと思います。
今回は、有名句の一つ「あかあかと日はつれなくも秋の風」をご紹介します。
あかあかと日はつれなくも秋の風…葉月も26日、メッキリ冷えこむ朝晩。蚊の嫌いな私には、それだけでいい季節だ。 pic.twitter.com/XUIRaT7OdC
— Taisuke (@tiny_biggy) August 25, 2016
本記事では、「あかあかと日はつれなくも秋の風」の季語や意味・表現技法・作者などについて徹底解説していきますので、ぜひ参考にしてみてください。
目次
「あかあかと日はつれなくも秋の風」の俳句の季語や意味・詠まれた背景
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
(読み方:あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)
※難面も(つれなくも)とも書きます。
この句の作者は、「松尾芭蕉」です。
江戸時代のはじめに活躍し、日本史上最高の俳諧師の一人とされています。紀行文「奥の細道」の作者としても有名です。
季語
この句の季語は「秋の風」、季節は「秋」です。
風はそのままでは季語ではありませんが、「秋の風」「冬の風」など季節を表す語をともなうことで、季語となります。
「秋の風」は、残暑を運ぶ初秋の風、仲秋の爽やかな風、晩秋の冷たい空気を含んだ風と、吹く時期によって3種類に分かれます。
この句は、旧暦の7月(現在の8月)に詠まれた句とされています。そのため、吹いていた風は「残暑を運ぶ初秋の風」と考えられます。
意味
こちらの句を現代語訳すると…
「もう立秋も過ぎて秋がくるのに、夕日は真っ赤に照り付けていて残暑は厳しい。けれども、さすがに吹いてくる風には秋の気配を感じる。」
となります。
「あかあかと」は、漢字の意味で考えると「赤赤と」だと「真っ赤に」、「明明と」だと「きわめて明るい」という意味になります。
この句の場合「日」は、夕日をさすため、「赤々と」の意味で訳しています。
「つれなく」は「つれなし」の活用形で「素知らぬ、冷淡だ、ままならない」などの意味があります。
この句の場合は、秋が来ているのを素知らぬような、残暑の厳しい「あかあかと」した「日」だとも解釈することができます。
この句が詠まれた背景
この句は、「奥の細道」に収められています。「奥の細道」とは、松尾芭蕉と弟子の河合曾良が江戸を出発して、東北から北陸を経て美濃国の大垣までを巡った155日間の旅を記した紀行文です。
この句は、元禄2年(1689年)旧暦の7月に金沢からの旅の途中に詠まれたとされています。
金沢では、加賀蕉門という芭蕉の俳句の流派の人たちが芭蕉を迎えました。門人の1人が、「ぜひ泊まってほしい」と芭蕉が来るのを待っていましたが、前年に亡くなってしまい、追悼の意を込めた句会に参加しました。
芭蕉は、滞在する土地で句会を開き、地域の人々や門人と交流を深めながら俳句を普及していました。
「あかあかと日はつれなくも秋の風」の表現技法
「秋の風」の体言止め
体言止めは、語尾を名詞や代名詞などの体言で止める技法です。体言止めには、美しさや感動を強調する、読んだ人を引き付ける効果があります。
「秋の風」の名詞で体言止めすることで、厳しい残暑にふっと吹いてきた風を強調しています。
「つれなくも」の「も」の助詞
切れ字ではありませんが、「~だけれども」という意味を表す接続助詞が使われています。
この助詞の使い方が、より「秋の風」を引き立たせています。
句切れなし
俳句では、意味やリズムの切れ目を句切れといいます。
この句には、切れ字や言い切りの表現が含まれないため、「句切れなし」となります。
「あかあかと日はつれなくも秋の風」の鑑賞文
この句は、古今和歌集で藤原敏行朝臣が詠んだ「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」を踏まえた句ではないかと言われています。
訳は、「(立秋の日が来ても)秋が来たと、はっきりと目には見えないけれども、風の音で、ああ秋が来たのだとはっと気づいた」となります。
芭蕉は、残暑の中に秋の風をふっと感じる、そうした何気ない一瞬を十七音に込めました。
もし、古今和歌集を踏まえた句であったとしたら、季節の移り変わりの一瞬をとらえ、かつ和歌を踏まえるという芭蕉の発想の広がりと、俳句のうまさが光る句です。
毎日変わらずに沈んでいく夕日と、確実に移り変わる季節に「わび・さび」を感じ俳句にする芭蕉の「不易流行」の理念も感じられます。
夏の終わりのさみしさと秋の始まりの待ち遠しさを、しみじみと感じることができます。
ちなみに、芭蕉自身もたいそう自分の詠んだ句を気に入って、この句の画賛(絵に俳句を書き添えたもの)を多く残したとされています。
作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単にご紹介!
(松尾芭像 出典:Wikipedia)
松尾芭蕉は1644年伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。
本名は松尾忠右衛門、のち宗房(むねふさ)といいます。
13歳で父親を亡くし、藤堂家に仕え10代後半の頃から京都の北村季吟に弟子入りし俳諧を始めます。俳句の道を志し、28歳になる頃に、北村季吟より卒業を意味する俳諧作法書「俳諧埋木」を伝授されました。若手俳人として、めきめきと頭角をあらわした芭蕉は、江戸へと下りさらに修行を積んでいきます。
40歳を過ぎる頃には日本各地を旅し、行く先々で俳句を残し作品を発表しています。46歳の時に弟子の河合曾良と「奥の細道」の旅へと出発。150日間で行程2400㎞を旅したことや、生まれが伊賀であったことから、忍者ではなかったかという説が出たこともあります。
旅から戻った芭蕉は、「奥の細道」の執筆や句会を催し俳句を詠みながら、大津、京都、故郷の伊賀上野などを転々としました。
1694年、旅の途中の大阪にて体調を崩し51歳にて死去しました。
松尾芭蕉のそのほかの俳句
(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia)