【かねて耳驚かしたる二堂開帳す】の意味や詠まれた背景・鑑賞・作者など徹底解説!!

 

「世界一短い詩」といわれている日本の伝統芸能「俳句」。

 

感じたことや日常の風景を五七五の17音で表現する俳句は鑑賞して楽しむだけでなく、誰もが簡単に作ることができる身近な文芸です。

 

今回は、松尾芭蕉の「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」というおくのほそ道(平泉)の一節をご紹介します。

 

 

本記事では、「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」の季語や意味・表現技法・鑑賞などについて徹底解説していきます。

 

俳句仙人
ぜひ参考にしてみてください。

 

「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」の作者や季語・意味・詠まれた背景

(平泉中尊寺覆堂 出典:Wikipedia

 

かねて耳 驚かしたる 二堂開帳す

(読み方:かねてみみ おどろかしたる にだうかいちょうす)

 

この文章の作者は「松尾芭蕉(まつおばしょう)」です。

 

松尾芭蕉は、江戸時代前期に活躍した俳人です。当時は言葉遊びのような滑稽さが中心だった俳諧を、芸術にまで高め「俳聖」とも称されるほどの人物でした。

 

芭蕉の著作『おくのほそ道』の「平泉」の章で詠まれている一節です。

 

 

季語

こちらの文章に季語はありません。

 

この文章が登場する『おくのほそ道』は、俳句と文章が交互に書かれている著作です。

 

「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」は、その後に続く文章の始まりであると理解されています。

 

参考まで…この句の前には「卯の花に兼房見ゆる白髪かな」、後ろには「五月雨の降り残してや光堂」という句があり、季語はそれぞれ「卯の花」と「五月雨」で、夏を表しています。

 

 

意味

「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」を現代語訳すると・・・

 

「以前から、その評判を聞いて驚いていた二堂が開かれていた」

 

となります。

 

もう少しわかりやすく訳すと「前々からうわさで素晴らしいと聞いていた二堂がちょうど開かれていた」といった意味になります。

 

この句が詠まれた背景

『おくのほそ道』はいくつかの章で構成されており、この句は「平泉」の章に登場する一節です。

 

「平泉」は岩手県南部にある土地で、平安時代に奥州藤原氏が統治していました。

 

 (奥州藤原氏三代像 出典:Wikipedia)

 

藤原清衡、基衡、秀衡の親子三代のときに最盛期を迎えますが、源頼朝から逃げてきた源義経を秀衡がかくまったことがバレてしまい、頼朝によって滅ぼされてしまいます。

 

松尾芭蕉は「平泉」の章で奥州藤原氏ゆかりの土地を訪れ、この史実を回想しています。

 

そして「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」は、奥州藤原氏を回想したあとに続く文章です。

 

「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃(たいはい)空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて甍(いらか)を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念(かたみ)とはなれり。」

(意味:かねてから話に聞いて驚嘆していた二堂が開帳していた。経堂は、三将の像を安置し、また光堂には三代の棺が納められて、三尊の仏像があった。飾り立てられていただろう七宝は散り失せて、珠で飾られていただろう扉は風に破れ、金の柱も霜や雪で朽ち果て、既に廃墟のような草むらとなるべきところを、四方をあらたに囲んで、屋根を作り雨風を防いでいる。しばらくの間は千年は保つ記念となるだろう。)

 

ここでの芭蕉は、前に語られた平泉の古戦場が草むらとなり、かつての栄華の跡となっていた事に対して、光堂と経堂は廃墟にならずに残っていたことに驚嘆しています。

 

 

「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」の鑑賞

 

「かねて」は「以前から」という意味の副詞で、芭蕉は以前から二堂のうわさを聞いていたことを表しています。

 

前々から訪れたいと思っていた二堂を今日ようやく訪れることができ、しかもちょうど開帳していたことに喜びを感じています。

 

平泉には経堂に鎮座する藤原清衡・基衡・秀衡の親子三大の像、そして光堂には彼らの棺とともに三尊の仏像を安置しています。

 

三代にわたって栄えた奥州藤原氏の栄華も一睡の夢のようにはかなく消えてしまった、そんな思いが込められた一節です。

 

ちなみに、『おくのほそ道』の旅には弟子の河合曾良が同行し、日記をつけていました。

 

(芭蕉(左)と曾良(右) 出典:Wikipedia)

 

『おくのほそ道』の本文中では「経堂と光堂」を見学していたことになっていますが、曾良の日記を見ると「経堂ハ別当留守ニテ不開(意味:経堂は管理人が留守だったため開いていなかった)」と記述しています。

 

実は『おくのほそ道』の本文中でも経堂の描写が実情と異なっています。

 

芭蕉は経堂に安置された「三将」を「清衡、基衡、秀衡の三将」と考えていましたが、実際には「文殊菩薩、優填(うてん)大王、善哉童子の三像」が安置されていました。

 

『おくのほそ道』はあくまで紀行文であり、事実だけを書き留める日記ではなかったことがわかります。

 

また、芭蕉は「不易流行(ふえきりゅうこう)」という考え方を持っています。これは、「いつまでも変わらないものがある一方で、新しく変わっていくものもある」という芭蕉の俳諧の基本概念です。

 

芭蕉が「暫時千歳の記念とはなれり。」と素っ気ない文章で光堂を称しているのも、いつか光堂も変わっていくのだろうという考え方に寄るものでしょう。

 

しかし光堂、つまり中尊寺金色堂は修復された上でコンクリート製の覆堂で保護され今日まで残っています。

 

芭蕉の言うとおり、まさに奥州藤原三代の時代から数えて「千歳の記念」になった面白い一幕です。

 

 

作者「松尾芭蕉」の生涯を簡単に紹介!

(松尾芭像 出典:Wikipedia)

 

松尾芭蕉は1644年に伊賀上野(三重県伊賀市)の貧しい農家に生まれ、169411月、旅の途中でその生涯を終えました。

 

日本人であれば誰もがその名を聞いたことがあるのではないでしょうか?

 

松尾芭蕉は江戸時代前期に活躍した俳諧師で、本名を松尾宗房、俳号を「芭蕉」といいます。

 

芭蕉は、当時盛んであった俳諧(連句)を芸術的な域に高め、芸術性が極めて高い「蕉風」と呼ばれる句風を確立したことで知られています。

 

芭蕉は幼くして伊賀国上野の武士、藤堂良忠に仕え、主君良忠とともに京都の国学者北村季吟に師事し、その門下となりました。古典における教養を習得し、俳諧を詠むようになったのもこの頃であったといわれています。良忠亡き後、芭蕉は奉公先を転々としつつ、俳諧においては伊賀上野では知られた存在となります。

 

そして、40代に入ると自らが尊敬してやまない昔の詩人たちと同じように旅に出ることを心に決めます。

 

1684年、江戸から伊賀への『野ざらし紀行』の旅を経て、いよいよ芭蕉は自身の俳諧の道を見出します。この『野ざらし紀行』以来、芭蕉は「旅する俳諧師」としての数々の作品を残していくことになります。

 

1687年には伊勢へ向かう『笈の小文』の旅へ出発し、復路は『更科紀行』としてまとめられています。そして芭蕉の俳諧紀行文の最たるものが、今回の「かねて耳驚かしたる二堂開帳す」が記されている『おくのほそ道』です。

 

旅の終わりは突然やってきます。1694年、故郷の伊賀を訪れるも、帰りの大阪で高熱に倒れ、たくさんの弟子さんたちに見守られながら、享年51歳で亡くなりました。

 

松尾芭蕉のそのほかの俳句

(「奥の細道」結びの地 出典:Wikipedia